自由と不自由

物事を自由に考えることができなくなっている。昔からそんな状態なのだ。自由連想というものがある。それはすべての制約を外して、思考内の情報を吐露し、その情報から無意識を分析していくというものだ。本でこのことに触れた時私は、自由連想は凄く創造的なものではないかと感じた。創造性は制約の全くないところからなんの意図もなしに発言してくる生命の声ではないか。私という主体がないときに出てくる言葉というものはどんなものなのだろうか。それは時間のない言葉なのかと思う。本当に何も考えずに行為をしている時それはなんのストレスもない。そして、自分が何も意図していない言葉が出てくる。頭を使わない。その言葉は本当に輝きを保有している。私は、その輝きを表現する機会を全く人生の中で持っていなかったように思う。自由というものを全く体験してこなかったように思う。自由であることは本当に許されない世の中だと思う。なので私は、自由を恐れ、そのような行為を行ってこなかった。自由というものは本当に清々しくて、開放的なものである。それは失敗を全く恐れていない精神である。失敗がないという世界で生きれたらどんなに清々しくどんなに心地よいことだろうか。なんのこだわりもなく流れるがままに生命を表現できる。何も考えずに、ただ存在することができる。発現は今この瞬間に存在して、それには時間がなくて、前後もない。そこは意味がなくその意味の無さが最大限の美しさと柔軟性を持っている。なんの滞りもなく流れていく。その清らかさと寛ぎは何ものにも変えがたく、それ故とてつもなく大切な体験となる。なんにも考えないで自由に言葉を発現できる場所など、本当にないのである。何も考えずに発言することは、人間から阻害されることになるのかもしれない。警察に捕まるのかもしれないし、家から追い出されるのかもしれない。人に嫌われてしまうのかもしれない。でも、それを恐れて不自由の中に生きるのはこの自由の素晴らしさと安らかさを阻害してしまうのである。私はどのようにしてこの世界で生きてゆけばよいのだろうかとよく悩む。いつもこのことで悩む始末である。今度臨床心理士のところに行ってこのことを話したらどんな回答があるのだろうか。全く予測ができない。このような葛藤を人間はみな持っているのだろうか。なぜこんなにも自由を制限し、否定してしまう社会が存在するのだろうか。それは、その社会を容認する数多くの人間が存在するからだろうか。私は、そんな人間の一人なのだろうか。無理に多くを語ろうとは思わないが凄く色々と書きたいきぶんだ。自由を体現すること。自由を表現することは本当に恐怖だ。何故かと言うと、私の中の自由は世間では認められないものだからである。認めていないのは本当は自分自身なのではないか。それはそうである。認めた時、自分は人間界では生きて行けないということを感じるのである。自発性をこの世で開示したことが私はない。自発性を全く認めてもらえないからである。認めるとはなんだろうか。誰が何を認めるというのだろうか。他人が私のことを認める認めないというのだ。なぜ人は人のことを認めたり認めなかったりするのであろうか。なぜ人は他人を非難したりするのだろうか。他人のことをとやかく言う人がたくさんいる。それはなぜなのだろうか。人は人のことを支配しようとします。それはなぜなのだろうか。支配について、思考の内容にある善と悪など、それを他人に当てはめて解釈することがたくさんあります。それは他人に対して指摘をするのです。その指摘は全うなものだとは言えません。善悪はなぜ善悪なのでしょうか。価値などこの世に存在するのでしょうか。存在は誰がもたらしたのでしょうか。それは人間ではないはずです。価値基準を提示するのは人間ではないはずです。人間を存在させている創造主がそれを決めるべきです。創造主は存在するもの全てに宿っています。そしてその声を聴くことが本当の生き方をもたらすはずです。価値基準を持っている人間はその声を翻訳したのでしょうか。全くその声を聞いていないように私には思われます。なぜならば、この価値基準は現生命の発現を否定していることが多々あるからです。なぜ創造主が創造物を否定するのでしょうか。そんなことはないと思います。否定するものは作らないと思うのです。なぜ自らの行為を否定するのですか。否定と創造は相伴いません。同時には起こり得ないのです。創造が起こっているのであればその創造が全てです。否定が起こるのであればそれは生まれていないのです。私の体がこの世に顕現しているということは否定は虚偽だということです。人間はなぜ虚偽をうんだのでしょうか。なぜ人間は人間を否定しているのでしょうか。それは恐らく人間が人間のことを創造主であると勘違いしているのではないかと思います。全体を知らない時。全体を観察しない時。人間は安易な決めつけを行います。そしてその決めつけに従って行為しだすのです。その決めつけをあたかも本物であるかのように扱い出すのです。そしてその時その決めつけは、様々な意味合いを持つのです。その決めつけには多くの副作用があるのです。それは自己を完全でないものとして含意しているのです。その時点で、創造主を忘れてしまうのです。その時、とても不安になるのです。そして、既存の観念のみにすがりつくようになるのです。副作用は完全な孤独を含意しています。完全な孤独は人間耐えられません。そして物質に執着しだします。他人の目線を気にしだし、どうにか嫌われないようにするのです。その時、頼りになる観念を持っている人同士でそれを分かち合うのです。そしてそれを壊そうとする人やそれを壊そうとする諸々の現象を無視し、破壊さえしてしまうのです。本当は孤独ではなく私自身が創造主であることを思い出したときに、全てが私であり全てが優しさであることに気づいたときにその根本にある不安は止むのです。その時、もし自分の回りにいる人たちが自分を攻撃してきても決して不安になることはないのです。何があっても動揺しなくなるのです。とてつもなく不動に自己を体現することができるのです。なぜならば、私は常に無限の愛でできているからです。