自信

幼いころは自信があった。しかし、成長とともに自信をなくしていった。そして自信をなくしていく過程で不安に襲われ多数の書籍を読むに至った。しかし、私を納得させてくれる書籍に出会うことは時間を要した。そして書籍を読む私自身と共感する本のみしか感動しないのであった。つまり、長年多数の本を読んできて思うのは結局自分が全てだということである。幼いころの考えていた疑問や思っていたことを思い出し、それをまた取り戻す過程にすぎないと思うのである。そして、そのことに気づいた時。本の意味合いが変わってくるのである。本をよむ動機が変わるのである。最初は不安から自分を認めてくれるような本を探し、読んでいたのが、今では自分で自分を認め自分が主であり自分が光であること。そしてその安心感から不安が消え、本を読む態度が変わるのである。自分の中に既に全てがあるのである。今まで探してきた全てが結局自分の中にあったものだったから。これからもそうなのである。子供の頃の自分が思っていたことは生命が思っていたこと。恐らく純粋な自分から出てきた思いだったのである。その思いを否定し、その思いを抑圧しだし、自信を喪失し不安でいっぱいだったのである。この子供の純粋な気持ちは嘘偽りの殆ど無い真っ当な声であった。その声とともにいる時葛藤は起こらず、常に生き生きとしていられたのである。その声を否定しだしてから私の中で葛藤が起き、自信を喪失していったのである。その声は世間に認められるようなしっかりとしたものではない。動機とか内容とか説明できるような固定できるようなものではない。ありのままのその発現は私にも予測できない。この未知なるエネルギーは私の最も信頼すべきものであり、私が必死に求めていたものである。そのエネルギーは私が否定し、抑圧していたのである。元々あったものを否定し、そのエネルギーを求め書籍にすがっていたのである。それは、世界一価値のある宝石を持っていることに気づかずに、世界一の宝石を努力し、手に入れようとするようなものである。それは蜃気楼に映るオアシスを求めて何十年も歩くようなものである。その人はいつまでも苦痛でどんどん憔悴してしまうことだろう。もしかしたら、死ぬまで自分がオアシスを所有していることに気づかないかもしれない。それは本当に悲しいのである。元々私たちは最高のエネルギーを持っていた。意図せずとも与えてもらえる神の恵みを受け取る器を所有しているのである。その器に全注意を向けてみると、一瞬一瞬新鮮な神の恵みの水が満たされていっていることがわかるだろう。探せば探すほど見当たらない。なぜなら、探すという行為自体が自分の中にある神の器[エネルギー]を否定していることだからだ。常に私は愛されているのである。要点は否定しないことである。ありのままを否定するのは最も愚かである。ありのままを否定するのは偽物のすることである。こんな単純なことを忘れて生きるのはもったいなさすぎるのである。ありのままが愛であり完全であることを忘れないで下さい。もう絶対に忘れたくない。