盲信

一つの思考があり、その思考に反応するもう一つの思考がある。そして、またその後に思考が反応し、永遠と思考の連鎖が頭の中で続く。その思考は全く無意味な一連の流れである。様々な人がこの思考から逃れようと必死になる。それは現実逃避である。私が生み出す現実に耐えられずそれから逃れるために思考を否定しようとするのは、自分への暴力である。それは、連鎖する思考が前に続く思考に向かって不満を抱くことである。なぜ、不満を抱くのだろうか。それは思考はいけないものだ。思考は悪者だと決めつけているからではないか。その決めつけをどうにかしない限り、その思考は必死に抵抗してくるだろう。親と子供の関係を考えてみるとそのことがわかる。親が子供のことを決めつけ、その決めつけに従って反応するとする。そうすると子供は、不満を抱き親の言うことを信頼しなくなるだろう。そして、心のなかで親に反抗的になるだろうと予測されるのである。自由とはなんだろうか。自由は、何かに対して、あっているあっていないと判断をすることだろうか。善悪。優劣。価値基準。それらに照らして物事を判断することだろうか。それは明らかに何らかの表現に文句を言うことである。現れる全てにその基準を通して接するとそれに対して、非難や正当化をせずにはいられなくなるのである。そしてその非難や正当化の声を浴びたものはそれを受け入れ、それに従おうとするかもしれない。しかし、それは自由といえるのだろうか。本当に自由になりたいのであれば、その判断を受け入れないことではないだろうか。その判断が存在する時、何故か自我があるという錯覚[思い込み]が誕生するのである。生命というのは否定も肯定も当てはめることができないのである。私達の根本は生命である。その生命を非難したり正当化したりすることはなんともおかしなことではないだろうか。非難と正当化など本当はできないのである。傷つくものと傷つけるものは共存できないのである。生命とその生命を傷つけようとするものは一つなのである。別れていないのである。判断しようとする時その判断されるものはいないのである。その価値基準を盲目的に信じ込むのはやめなさい。それが貴方を分裂させているのです。観察者と観察されるものは、錯覚をあの判断基準を手放そうとしないことによって発生するのです。それが自我と言うものなのかと思います。