思考の変質

2017年8月2日

私の中でそれらはたちどころに発生し、それは止むことなく宙を泳ぐ。私は精神を明晰にし、それらをひたすらに見つめることが在る。心が思いっきり乱される出来事があります。その事態に対して私はどう向き合ってゆけばよいのでしょうか。それは起きたことです。そしてこれから起きることを私はどのように接してゆくのでしょうか。この捉えることが出来ない生命の動きに対して、どのように接してゆこうかと悩む思考があります。なぜその思考が存在し得るのでしょうか。捉えることの出来ない生命の連続体しか存在し得ないこの場で、なぜそれ以外のものが存在するのでしょうか。私というそれは、なぜ存在するのでしょうか。それはこの生命の連続体とは離れた動きなのでしょうか。なぜ私というものが存在して、それが生命の動きと関わろうとするのでしょうか。この私という思考は、これらの生命と全く異質な何かなのでしょうか。私はこの私というものであると言う前提のもと今もまだ生きています。どうすればよいのだろう。この状態から抜けで無くてはならない。これはいけないことだ。この動きは未知だ。この未知から逃れなくてはならないと。そのようにこの私というものが志向します。その方向性は最も強迫的なものの一つです。この動きを持つ私とは一体何なのでしょう。この強迫的な動きを持つものは一体何なのでしょうか。それを私と呼び、存続させようと必死なのですが、その必死に活動をしているそれは何なのでしょうか。それは、この生命の中の一つなのでしょうか。生命の顕現は完全に一つです。その一つと分離しているものは何一つないのだと私は認識しているのでしょうか。それは実感を伴わない言葉遊びに終止しているのでしょうか。この生命の顕現を否定したり正当化したりしている思考者は一体何者なのでしょうか。それ自体が、生命に依存していることをそれ自身は知らないのでしょうか。恐らくそのような結論になることでしょう。この思考者は、恐らく混乱しているのでしょう。思考者は事実を見ることができるのでしょうか。思考とは、記憶とその前提です。その記憶を否定するのは思考者ではないです。恐らくそれを否定するのは何らかのきっかけで、実感としてやってくるものです。その理解がこの思考を変質させるのではないかと思います。その実感は、思考というものの動き全体を完全に洞察したときにやってきます。思考という枠の外から認識するのです。囚人は牢獄から完全に抜け出たときにその建物全体を見渡すことができるのです。地球は地球の外の宇宙に行かなくてはその地球の丸さを認識出来ないのです。現在に反応しているその思考全体を認識することなどできるのでしょうか。それは、可能なのだと思います。しかし、この思考を超越したものは盲目的な前提を見抜いた思考です。思考が、思考の間違いを見抜くのは全ての内容に徹底的な注意を払い、実際を常に科学的な視点から探求することによって成されます。その時私とは何でしょうか。それはいずれにしても、私に変わりはありません。私でないものを洞察しその理解とともに私が変質する。その過程があるだけなのかもしれません。