関係

動物は人間と違って、言語を持っていない。今日は言語について考えてみた。言語を持つ人間は人との関係の際言語を用いる。そんな風にして日常生活を生きている。しかし、動物は言語を用いずに生きている。なぜ人間だけ言語を用いて生きているのだろうか。恐らく人間も言語を持たずして生きることは可能なはずである。なのになぜわざわざ言語を用いるのだろうか。言語は抽象を扱うことが出来、時間を扱うことができる。この2つはものすごくこれまでの動物とはかけ離れた異物である。この異物を手に入れた時人は好奇心からそれを使うことが推測できる。文章で空想の物語を描くことができる。他人と言語上の意思疎通を行い協力することができる。想像によって結果を先見することができる。人間関係において言語は期待を含みやすい。期待とは他人を自分の思い通りに動かそうとする動機より発生する。言語を用いる時人は人と言語上の関係を持とうとする。しかし、言語上の関係をするには人は同じレベルで出会わなければならない。そこに言語を用いることの困難があるのである。本来言語は道具にすぎないものなのである。そして人はその道具を用いて各動物の生き方、精神を全うするものである。しかし、その言語は人間をこれらの動物とは異質なものに変えてしまった。人間は言語に魅了されすぎたのである。私達の実際の生よりもこの言語のほうが重要になってしまったのである。その時人間は自分自身の生を生きれなくなってしまった。言語上の架空の生を生きる羽目になってしまった。言語には生命が宿ってはいない。この架空の言語生命は自分が死ぬのを恐れ、それを見抜かれることを阻止するべく、多くの困難と障壁を打ち立てた。人は言語に沢山の法外な意味を与えた。それの典型的なものは善と悪である。これは善で、あれは悪であると区別を行いそれに背くものに罰を与えるというものだ。これは言語生命が自分自身を擁護するために正当化を行う恰好な口実である。しかし、いつこの言語に偽りの生命が宿ったのだろうか。それは恐らく組織化を目論んだときからではないかと推測される。言語上の利害関係によって関係を持つ時、複雑な関係が発生する。言語が生命を支配し、扱えるとした傲慢な精神。それらは多くの矛盾と葛藤と苦痛を余儀なくされる。そして私が言語関係上の固定と保証に執着する時それはより強固になり存続するのである。それからの自由はそれらの虚偽を見抜いたときに起こりうる。それは、今までの人生での経験が全て蜃気楼の一部であったことを見抜くことに近い。今まで愛着を持ってきたそれらの幻想の一切を消し去ることを意味する。言語というものは完全な基盤の上に築かれなくてはならない。その完全な基盤こそが虚偽を虚偽と見る事ができる精神なのである。動物は言語からは無縁である。その孤独さは天真爛漫さを内包しているのである。傲慢さは不確実性を所有し推し進める。謙虚さは不確実性の一切を放棄する。