人生の方向性 寛ぎ、伸び伸びと生きていくために

2017年8月25日

最近このブログをどう活用しようか考えていた。毎日書くのは億劫だし、でもアイデアは毎日閃くのでプライベートのツイッターにそのアイデアを保管している。ならば、このツイッターに書いたアイデアを一週間に一回このブログでまとめてみてはどうかと思いたった。そんな経緯からこの記事は生まれた。

序文

一週間で、様々なことを考えた。私は毎日様々なことを考えているが、それをまとめることをあまりしてこなかった。今回は個々一週間で閃いたアイデアをまとめ、整理する。

はじめに、私はどんなふうに人生を生きたいのかということを考えてみた。私はぼーっと日々を生きていて、なんのメリハリもなくダラダラと過ごしている。これは、人間関係からの逃避にあたる。つまり引きこもりである。これはなんとしても克服しておかないとならないとの多少の危機感から自己の生き方を見直してみた次第である。

この見直しを主軸に一週間を生きたところ、自身の精神的障害と、自己をより良く生きるためにはどうすればよいかの考えが湧き出てきたのでこのことについても触れていく。そして最後に、自立して自己をよりよく生きていくために今後どうしていくのかの私の考えを述べることとする。

人生の方向性

私の行いたいことは全エネルギーの解放である。

私が人生を通して行いたいことを現時点で考えた時、次のような考えが生まれた。「寛ぎ、伸び伸びと生きたい。それだけで十分だ。」このことから私は、自分が寛いだ状態で伸び伸び生きることを達成するために生きることにした。

人生の醍醐味は「ありのままであること」と「好奇心を試しまくること」

ありのままであることは最上の寛ぎである。何者にも束縛されずに自分を許し、最初から何者にもなろうとしないこと。人からよく見られようとするのをもう諦めること。これらを実行するのはとてつもない恐怖と不安が伴うが、それらもどうでも良いと放棄するのなら、達成は可能である。私は、好奇心を試すことに非常な楽しみを感じてきた。例えば、音楽を作曲する時様々な手法を用いて実験的な音楽を作った時とてつもない楽しさを覚えた。これらは、とてつもない寛ぎと、好奇心・自信を育ててくれるものだと感じる。

障害の克服

しかし、それらを達成するには様々な困難が立ちはだかる。それは私の人生の根底に存在する基本的不安である。

基本的不安とは

私はわたしの生き方を認めてくれ、共感してくれる人を必要とする。これらの人がいない時私は一人で、道を進むことになる。そこには不安が存在する。人に非難された経験があるとなおさらそれが難しく感じる。仲間もいないし、安心感もないなか一人で進んでいくのは多くの不安や恐怖が存在する。

基本的不安に打ちかつ

しかし、この不安を解消するために誰かにしがみついたり、責任を転嫁してしまっては、私の生き方は不健全なものとなってしまう。責任とは自己理解のことである。自己に完全に通じた行為が本当の責任を全うできる。すなわち自分に何一つ嘘をつかずに生きることが責任というものを全うできる唯一の方法なのである。

恐怖からの脱却

私自身の生き方に全面的な責任を負い、健全に生きていくためには、不安と恐怖に常に出会わなくてはならない。そしてそれを愛さなくてはならない。

肯定的な諦め

恐怖と出会うには、恐怖に出会うことは避けられないものとして諦め、もういっそ全部受容するという精神が必要である。真の自己に通じ本来の目的[寛ぎ、伸び伸びと生きる]を日々体現するには恐怖の受容は最も重要なことの一つなのである。

生まれていないこと

私たちは観念に従って恐怖を認知する。観念とは実際は虚偽である。木という言葉は木そのものではないことは明らかである。木という言葉はその対象を指し示すだけであってそれそのものの存在意義や果てしのない生命上の役割、その生き生きと活動する姿、エネルギー、鼓動そのものではないのである。それをしっかりと認識し、この観念上の言葉に惑わされない精神が必要である。観念上の真実は現実上の非真実。つまり、私は生まれていないのである。なので、観念上に誘起される諸々恐怖は恐怖そのものではないことをしっかりと認識する事が恐怖に支配されないために重要な見方なのである。

虚偽の修正

それでも、私は観念上の問題に苦闘することがよくある。そんなときは、その問題は何か?と問い吟味する。そして、熟考し、その本性を暴くことを怠ってはならないのである。

虚偽の理由と人の生き方の外観

観念上、言語上の虚偽は蜃気楼のような必然性を錯覚させる。それに囚われた時、私のこの中心的な生き方はどんどん崩れていく。なので、これを起こさないために私は生き方の外観を簡易的に作ってみた。これを定期的に参照することによって、足を踏み外すことが少なくなると思うからである。下記がその外観である。詳細は省く。

生き方の外観

これらは、言語外からの観察より発生する。正しさを探すという行為は観察をやめ、空想から物を見るということである。空想から物を見ること、それはそれそのものの姿を見ることを困難にする。誰かの言葉から始めるのではなく、自分自身で見ることから始めること。すなわち上記の図の観察から始めることが虚偽にとらわれずに、生きていくために必要なことなのである。

絶望とは

絶望についても考えてみた。私自身、絶望という状態を何度も味わうことがあった。結論から絶望とはどんな状態かというと「私は完全に無力であるが、それを克服する手立てもなく、すべての人から見放され、すがりたいがすがる人がいないこと」を示す。絶望というものは、「助けて」という言葉にその全内容が集約される。それは「自分ではどうしようも出来ない。だから誰か助けて。」である。その時自分に問うべきである。「本当に自分ではどうしようも出来ないのだろうか。」「勇気を振り絞り立ち向かっていくことを自分はしたことがあっただろうか」と。

最後に

結構内容が沢山で、この日記を夜に書いているということもあり、余り詳細に及ぶまで解説できなかったが、自分の思考をまとめ、腰を据えるのには有意義な日記となったのではなかろうか。これからも、一週間を区切りにして、様々な閃きのまとめを行っていきたいと思う。続くかわからんが^^;