健全な発達と神経症的発達

2017年9月1日

人間の成長過程の一形態として神経症的発達が挙げられる。この神経症的発達は人間の建設的なエネルギーを阻害し、浪費させるものである。すなわち、人間の真の力強さを否定し、空想的な支配力を肯定するものである。 

健全な発達と神経症的発達の分岐点

人は恵まれた条件の下で育つ[正当な教育と健全な愛を与えられ育つ]場合、自己の持つエネルギーを自分の可能性を実現することに注ぐ。逆に心に緊張を持って育つ[不当した教育と不条理な虐待を受けて育つ]場合、自己の持つエネルギーを自分の身を守るために注ぐ。自分を守るため[虐待を避けるため]に自分を完全無欠なものへと作り上げること[成り行く過程]にエネルギーを注ぐ。この両者には本質的に成長の仕方が異なる。前者、恵まれた条件の下で育つ人は、天分を十分に活かす方向へエネルギーを使い、後者、心に緊張を持って育つ人は、不足を補う方向へエネルギーを使う。それは、精神的に満たされている状態と精神的に満たされていない状態の違いである。満たされている人は、好奇心により生き、楽しむことに重きを置く。満たされていない人は、恐怖心により生き、恐怖から逃れることに重きを置く。

健全な発達へ向かう条件

恵まれた条件の下で育つ場合、何が満たされるのだろうか。それは、人間性である。人間性はいわば、植物の種の様なものである。植物の種には、本来の天命が備わっている。それは、すくすくと育ち、花を咲かせそして新たな種を生み出すことである。では、その植物に備わった天命を全うさせるためには、どのようにそれを育てることが適切なのだろうか。それは、天命を全うさせるために、すくすくと育てるだけの環境と、十分な栄養を与えてやることではないだろうか。そのような条件が揃って、やっとその種は天命を全うするための準備が整い、芽を出し始めるのである。同じように、人もそのような教育と保護された環境が存在するとき、人も満たされることができ、自分の可能性を実現する方向へと育っていくことができるのである。植物の種はその種の天命を理解し、肯定し、それに適した環境を与えることで満たされ発芽するのである。人間もその人間の天命を理解し、肯定し、それに適した環境を与えることで満たされ自己の可能性を実現することに全エネルギーを注ぐことができるのである。種は芽を出し、花を咲かすことを望んでいる。人も同じく自分の可能性を実現することを望んでいる。 

神経症的発達へ向かう条件

しかし、このような満たされた環境の無いものは必死に環境を整えようと奮闘することになるであろう。この人は自分を完全無欠な状態にすることによって、やっと精神的に満たされた環境を獲得でき、本当の自分の生を生きることができるのだと考え行動するのである。不幸なことにそんな環境で育てられているのである。

この、満たされた環境を獲得しよう奮闘することが神経症的発達という特殊な発達形態を生み出すのである。このような劣悪な環境で、個人の人間性を理解されず、否定され育てられた人は、もう虐待を受けるのは散々だと思うことだろう。そして、完全無欠な人間というものに成ることが愛を与えたれるための手段だとも考え始めるのである[実際そのようにしなくてはその環境下では他人に認めてもらえない]。そして人間関係を極度に嫌悪し、できるだけ関わらないようにする[窮屈な人間関係からの安息は人と関わらないことである]。強いものだけが他人を支配し自分の生きたいように生きることができるのだと思ったりもする[そのように教育され、そのように世間が動いていることを認識するのである]。

 そのため、この人は「自分の可能性を実現すること」ではなく「何かに成るため」にその人の全エネルギーを注ぐことになる。この人が求める理想は「尊敬され嫌われず人と関わらず安楽に暮らすこと」等々である。そして、これらを達成するまで決して自分自身を肯定しないことを誓うのである。