規律と抑制について

2017年9月2日

規律と抑制について考えるに至ったきっかけ

規制と抑制を重要視する組織が至るところに見受けられ、広く行き渡っている教育観でもこれらは重要視されている考えの一つです。これらの理由は人間を暴走させないように抑えつけ、周囲と協調し、うまく馴染んでいけるようにとの意図より古くから受け継がれてきているのだと思います。

しかし、これらの規律と抑制はあまりにも機械的なものになってしまっているように思われます。私は、これらの規律と抑制をよく押し付けらました。それから、私は規律や抑制を有意義に、そして柔軟に活用できないものかと思ったものでした。なぜなら、私は多くの人々の規律と抑制の扱い方から、理解の精神から生まれたものではなく、盲目や無知の精神[無理強いの感覚に近いもの]を感じたからです。

規律と抑制を人間が重要視する理由の考察

こんなにも、人々が自他共にこの規律と抑制を強要するのには、それ相応の理由があるはずです。私は、それは所属感への過度な執着によるものではないかと推測しています。例えば、周りがそうしているから私もそうするというものです。これは、理解と探求からは離れた行為と言って差し支えないように思います。しっかりと、自分でこれらの規律と抑制への意義を熟考し、見出していないからです。これは、ただ他人に言われたことをそのまま鵜呑みにしている事実からして、明白だと思います。

規律と抑制の回避

どうすれば、これらの規律と抑制を回避し、なおかつこれらの意図「人間を暴走させずに、協調的な精神を保つ」を満たすことができるのでしょうか。勿論、人間の利己的な暴走や、非協調性に関しては対処しなくてはならないことは私も感じますし、無視はできないことです。しかし、理解を持たない上辺だけの対処法では、それらをより悪化させてしまうだけなのではないでしょうか。

実際、盲目的なこれらの規律と抑制によって人間の自発性や愛情が損なわれ、阻害されていることも一つの事実なのではないでしょうか。私がここで提示したいのは、「理解によってもっと建設的な解決方法を見出すことができるのではないかということです。」それは、人間の自発性や愛情を開放し、束縛の感覚を消散させ、尚且つ利己的な暴走を食い止め、協調的に行為するための方法です。

規律と抑制を超える。考えることー積極的な懐疑と改変の重要性

積極的な懐疑と改変

何か問題が発生したとき私たちは、安易に答えを出し、それが最善なのだと決めるける傾向が何故か強いのです。この即断や安易な信仰は、不幸を招くのです。本当の決定打は副作用が発生しないものです。その不幸を招く副作用を発生させないということは、決して妥協しないということです。そして常に考え続けることです。そのためには、積極的な懐疑と積極的な改変が必要です。

常に自分自身の考えや問題に対する対処法は妥当であり、事実に即しており、有意義なものなのかを懐疑心を持って見つめることです。そして、問題を発見したら積極的に即改変にとりくむことです。そうしなくては、不幸をより一層この世にもたらすことになることを認識することは大変重要なことではないでしょうか。

理解と熟考は愛を開放するの手段の一つである。

規律と抑制への盲目的な執着から逃れ、自由にそれらを扱うことが出来るようになるにつれて、他人への硬直的な批判は建設的な援助と協力に変わるはずです。そのとき、本当の意味での愛のある協力的精神や自他共に尊重することの出来る精神を持つこと可能になるのではないかと私は常々感じます。

最後に

私は、盲目的な精神は、自他共に破壊へと導いてしまう大きな要因のひとつであると確信しています。それは至るところに未だに存在しているのです。理解は、物事を正しい位置へと連れ戻してくれます。理解しようとする精神が健全さを生み出すのだということを見ることは本当に生きてゆく上で大事なことだと思うのです。