世界をどのように認識するかを私は選択することができる

私は以前、「落ち込まなくてはならない。」「笑わなくてはならない。」等々自分に強いた時期があります。それを行うに至った経緯は、そうしなくては共感能力のない人になってしまう。と言うものでした。人は共感をしてもらえると非常に心地良く感じますし、共感してくれた人のことを大事にする傾向があります。私は、誰からも嫌われたくなかったので、必死に自分自身に共感しなくては、みんなに嫌われてしまう。と恐れていました。

この状態は、常に恐怖にさらされている状態といえるでしょう。世界はこのように生きなくては生きていけないものだと完全に決めつけ、その世界を生きようとします。決めつけるということは世界はこういうものだという原理を定義付け、信じて疑わないということです。それは、普遍の原理として脳に定着化し、物事を思考する上での基盤となり、前提となります。

私は、世界の捉え方は下記の二種類あると考えています。

  1. 前述のように世界はこういうものだと決めつけ、それを自分自身の思考の基盤として定着化し、その知見から世界を捉える。
  2. もう一つは、前述のことを自分の思考の基盤として定着化させずに、その基盤を色眼鏡のように適宜つけたり外したりして捉えていくという捉え方です。

恐らく後者のほうが柔軟性があり、それ故自己欺瞞など起こすことも少なくなることでしょう。この見方を比較して何を申し上げたいのかといいますと。前者の捉え方だと、思考内に矛盾が度々起こり、それが原因で、人間は大変な精神的消耗を引き起こしてしまっているというということです。

自分が捉えたいように捉えている世界に自分が対応しているに過ぎないのに、世界の捉え方が定着してしまっているがために自分で引き起こしたに過ぎない結末を世界のせいにすると言った事態が起きているのです。例を挙げると自分で家を作ったのにその家に欠陥が見つかると「誰だ!この家を作ったのは!」と憤慨するといった具合です。自分でその家を作ったことを完全に忘れてしまっているのです。

人間は、毎度毎度このような自己矛盾を引き起こしてしまっているように思います。適宜世界への捉えかたを変えることを身につけることは、生きる上で結構重要な事なのではないかと思うのです。自分で物事を考え自立できるようになった時、以前依存してしまっていた認識の仕方を見つめ直し、現時点でより良い認識のしかたと言うものに再構築し直すこと。それは重要なことであると思います。脱皮のようなものです。柔らかくしなやかな蝶のように、硬い蛹から脱するのです。