対人恐怖について

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私は毎日対人恐怖を起こしている。全ての人に対して何かしらの恐怖を抱いている。

例えば挨拶しない私を人は軽蔑し怒っているとか、私の笑顔を気持ち悪いと人は軽蔑しているだとか、私が何か意見をいうと人は私を非難するとか。(これは数えればきりがない程ある。)

私は、人に会うたびにこのような恐怖を感じ、それから逃げるように自己抑制と自己非難を繰り返してる。

これらは多分に幻想が含まれていると思うのだがどうにもそれが本物のように感じられる。ただの通行人さえとても恐ろしいのである。

私は一体何を恐れているのかと今日考えてみたところ、それは「支配者の理屈によって暴力を振るわれること」であると感じた。

暴力的な支配者は自身の理屈によって善と悪を二分し、悪に対して大変な暴力を振るう。私はこの暴力に対して大変な恐怖を抱いているのである。

すべての権力者はこの暴力性を持っている。そして権力のないものに対して、暴力的に支配している。

私は、少し前のエッセイ「甘えの意味」で自身の生存権利を他者に依存する時に恐怖が芽生えることを書いたが、まさにこれであって私の生存を左右するであろう世間に依存していることによって私は大変な恐怖を抱いているのである。

そして不幸なことに、愛に出会えないことが更に私を怯えさせているのである。

しかし怯え、それから逃げることは更なる暴力を生み出す。それは愛を完全に抹消してしまう力をもっている。怯え、それから逃げることは愛の否定になるのである。

愛とは何であろうか。それは物事を決めつけないことである。幻想を信じないで、それは何なのかを観念化せずに見つめ観察することである。その経験を刻々と体験することである。

たとえ支配者に暴力を振るわれても、私は善悪の実を食べたくない。たとえ支配者におだてられても、私は善悪の実を食べたくない。

支配されずに、支配せずに、人と関係を築くことは可能だと信じている。

私は、恐らくずっとこの対人恐怖と共に生きるだろうと思うのである。私は恐怖と向かい合い、恐怖から逃げることをやめたいと思っている。その時、恐怖の本当の意味がわかるだろうと思う。私は、未だに恐怖を調べられていない。観察出来ておらず、多分に偏見や決めつけの観念で、言葉に翻訳したものを認識しているに過ぎない。