本当の観察と理解は存在の全肯定がないところに存在できない

2018年3月21日

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タイトルが少し難しいけどこれを言い換えると、「否定や正当化があるところに観察はありえない」ということである。

否定とは、存在の否定である。それは現実から目をそむけている。

正当化とは、正しいと理屈を立てることである。それは現実に不当な意味をこじつけている。

本当の観察や理解は、この非難と正当化ではない。それは存在の全肯定である。

存在の全肯定とは、非難も正当化もせずにありのままを完全に肯定するということである。

例えば、疲れていたら、それを肯定する。罪悪感を感じたらそれを肯定する。恐怖に苛まれてもそれを肯定する。暴力的な感情が芽生えてもそれを肯定する。暴力的な感情をダメだと言って抑圧しようとしている自分を肯定する。葛藤している自分を肯定する。嫉妬している自分を肯定する。でしゃばりな自分を肯定する。卑猥な感情をもつ自分を肯定する。友達を作りたくない自分を肯定する。独りよがりな自分を肯定する。死にたいと思っている自分を肯定する。

もうなんにも否定してはならないし、自分が正しいとも結論付けずに、ありのままを全肯定するのである。

これが、最高の観察にほかならない、そしてこの観察を徹底して行う時、真の理解がやってくるのである。それ以外に、本当の理解など存在するのだろうか。

本当の自分を理解したいのなら、これを行うしか無いのである。このことに本当に真剣であるのであれば。

自己を振り返ってみると、本当の観察というものをほとんど日常生活で出来ていないことに気付かされるのではないだろうか。このことには本当に驚かされるばかりである。偏見に染まってしまうと本当の生から疎外されていくのではないだろうか。