自発的であること

人は自発的な活動の為に生きなくてはなりません。それ以外は捨てなければならないないのです。

人は何かしらの先入観を持つのなら、自発的であるものは理解することができません。自発性とは、率直な自分自身の要求や、思考、存在の動きから、学ぶことを意味しています。その時、その人のにとって権威は一切存在しなくなることでしょう。自発性は、生き生きと生きているものです、そして絶え間なく変わり続ける、ものすごく大きなエネルギーの動きです。そしてそれについて教えることのできる人は誰ひとりいません。それは、全てが独自の動きを持っています。

人は自発性を中心として生きるのか、それとも、権威への盲従を中心として生きるのでしょうか。盲従とは、その言葉どうりのものです。それは生のあの豊かさの放棄、創造性の放棄を指します。生の豊かさを放棄する時、人のあらゆるエネルギーが意識的、無意識的な葛藤によって浪費されるでしょう。

権威への盲従を放棄する時、その人は多大な嫌がらせを受けるかもしれません。その人は見下され、辱められ、追いやられ、貶められるかもしれません。そして、しっかりした機械の様になるように貴方を思いやる人々(これは思いやりではなく、責任回避の安楽な生き方を教え込むものですが)によって激励されることでしょう。このような、誘惑が常に存在します。誘惑に流されない精神はどのようにしてやってくるのでしょうか。それは、その中にある多くの悲しみを見る時にやってきます。誘惑の中にある虚偽、その不道徳性を見抜くことの中に、それはあるのです。人はゆっくり進まなければなりません。一つ一つ、どれだけ急かされても、嫌がらせを受けても、卑しめられ、ある一定の行為を強いられたとしてもです。

その一定の行為の中に何があるのでしょうか。それは、抑圧と苦しみと憎悪です。そこには自発性の否定が含まれており、それ故、その中に愛が生まれる余地はないのです。そして、ある人は苦しみます。葛藤があり、恐怖があり、憎しみがあるのです。それらは、そのまま存在します。では、ある人は何を中心に生きますか。ある人は、その率直な気持ちを中心に生きるのです。

苦しいから、苦しみから逃れようとします。どのようにしてでしょうか。それは権威への盲従として。完全な苦しみからの解放を語る書物を通じて等々ではないでしょうか。しかし、それは、今在るものの否定を含意しています。その時、率直さがなくなるのです。それは非常に狡猾な心の動きです。率直であることがあります。その時、その人は率直さそのものであり、その率直さが行動そのものです。その時、心の葛藤はありませんし、何の選択もなくそれそのものの動きを体現するでしょう。しかし、その率直な動きの中に、自己を変えようとする動きが入り込むのです。

恐怖があります。そのとき、人はその恐怖を回避しようとします。それは、寒さによって暖かさを求め出すように自然な動きです。しかし、その時、その恐怖の回避に観念を用いる時、人は在るものを変えようとする動きをその精神に宿すのです。

観念は現実を指し示すことはできても、それそのもののではありません。もし、現実ではなく、観念を中心にして生きるのなら、その中に生の豊かさの含意はなく、その否定のみがあるのです。それは、塩についての観念はあっても、塩の味を知らなくてはそれを扱えないようなものです。どれだけ塩の味について考えようとも、塩の味を変えることも知ることもその存在意義を実感することもできないのです。

人は、恐怖を回避しようとする時、観念を用いることがあります。〜を達成すれば恐怖は消えるとか、〜を行えば安心が得られる等々。しかし、それは率直さを否定する動きです。観念を中心とする時、率直さは置き去りにされ、否定されるからです。そして、その中には決して恐怖からの解放や自発性の開花はありません。なぜなら、恐怖から解放されようとする動きそのものが、恐怖を生み出しているからです。すなわち、率直さを否定する時、その中に恐怖が存在するのです。

自発性は、どのようにして獲得したらよいのでしょうか。そのようにして答えを求めることこそが、自発性の否定を含意しているのではないでしょうか。そして、そのことを言葉の上ではなく、その人の存在全体で理解した時、そこに恐怖に屈することのない自発性は存在するのです。そして、生きることそれ自体が自発性の表現となるのです。

日記

Posted by kazuki