不足感と選択と努力と自由と愛について

2019年12月19日

安心の追求に基づかない行動と安心の追求に基づく行動があります。努力なく生きるとき、そこに自由があります。

努力は選択[〜すべき]があるときに存在します。この選択[〜すべき]の必要性は、自分の中に不足感を意識している限り、存在しています。

では、何がその不足感の原因なのでしょうか。不足感は安心の探求によって、存在意義を与えられています。安心を探し求めること自体がその対極である不足感を生み出しているのです。

そのとき、その不足感をどうすれば満たせるのか、取り除けるのだろうかという疑問が生じます。しかし、それは決して満たせるものではないのです。

皆、それを満たすために、安心を必死で探求しますが、安心の獲得を追求するとき、その行為自体が必然的にその対極である不足感を生み出しています。

もし、精神が安心の追求に基づく行動や選択、努力等々の行動から自由であるのなら、そして、それらの行動はもう一つの対極である不足感を作り出すだけだということに気づくのなら、そのときに、その行動に終止符が打たれるのです。そのとき、人は自分の中にも他人の中にも不足感を見出さなくなるでしょう。

そのときにだけ、自由があるのです。本質的な生きることがあるのです。そして、自由の中にだけ愛が存在することができます。

追記:2019年12月20日

さらに深く考えてみると、安心の捏造は人が恐怖に怯えた時に起きます。そして、その捏造を固く信じる時、それに救済を期待し、その慰めにすがって依存してしまう時に、人はこの安心の追求を永続させてしまうのです。そして、終わりのない葛藤や抗争、選択や努力の輪の中にとらわれてしまうのです。

極端な話ですが、祈らなくては幸せになれないし、地獄に落ちる。という話は捏造されたものではないでしょうか。同じく、社会的な道徳的基準やあるべき姿に自分を作り変えないと、幸せになれないし、不幸になる。という話は捏造されたものではないでしょうか。

このような迷信はどのようにして生まれたのかというと、それは、人が恐怖に怯えた時にそれを避けて生きる生き方を考え出した時に生まれたのではないかと思います。

しかし、その捏造した迷信にどっぷりと浸かるとき、人はずっと恐怖するし、選択するし、努力し続け、精神的な寛ぎの感覚を味わえなくなってしまうばかりか、自分の周りにさえも多くの恐怖や混乱を作り出すのです。そして、その人は進んで捏造された迷信や規律を子供や弱いものに向けて宣伝し、脅し、ときには威嚇や暴力によって信じ込むように強制し、さらなる恐怖を植え付けていっている現状があるのです。

※ 不足感について
不足感については『不足感はなぜ起きるのか?その発生と根絶について』にてより詳しく考えてみています。