一般常識は矛盾だらけ

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親は子にその文化特有の一般常識を教育し、教え込みますが、その親が一般常識にとらわれすぎている場合、子供には大変な苦痛が襲いかかります。

世界はこういうものだ。人間はこうあらねばならない。といった風に盲目的に一般常識を盲信している親は分裂した精神の持ち主です。

何故なら、ありのままの人間は観念化された形式とは全く違うものだからです。

それを、観念絶対というような考え方で生きてしまうと、真の自己と観念的自己との分裂が起きてしまうのです。

分裂し、その一方の観念的自己が本当の自分だと勘違いすることが、盲目的な一般常識の盲信として現れているわけです。

このように精神が分裂すると、親の実際の行動と教育内容に本当に多くの矛盾が現れてきます。

それを子供は全て見抜きます。そして親が偽善者であること、親と自分の所属している文化が偽善者の集まりとして感じられるのです。

その時、その子供は無意識的ではありますが、心の奥底に世界への絶望感を抱きながら生きることとなります。

偽善は愛ではないのです。それを子供は感じ取ります。そして、この世界は愛のないところなのだと親の教育や態度から結論づけざるを得ず、信じ込んでしまうのです。

一般常識と言う言葉はその言葉通りの意味で(世界の全ての人の常識)としてその子供は認識します。

すなわち、全世界の全ての人が愛のない偽善者だと捉えるのです。

そして、私もこの世の中の人たちと同じように愛を否定し偽善者にならなくてはこの世界では生きていけないのだと結論付けるのです。これは、非常に不幸で致し方ありません。

この考え方で生きると必然的に次のような道徳観をその人の人格に根付かせることになります。

「人間は元々罪深いのでそれを正して生きなくてはならない」

この道徳観が文化特有の一般常識を生み出し、ありのままの自分や他人を愛を持って認めることを罪とし、真の自己と観念的自己との分裂を発生させるのです。

真の自己のありのままの姿を認めることは、罪悪感と恐怖感と不安感を否応なく誘起します。

なので、人間は盲目的にこの不安を避けるために一般常識や文化に精神的に依存し、真の自己を忘れ去り、観念的自己に生きるのです。

それが、これから生まれてくる子供たちにとてつもない不幸を与えることとなるのではないでしょうか。

子供は全ての偽善と矛盾を愛によって見抜いてしまうのです。その愛を否定し、偽善を生きるのはとてつもなく辛いことです。

それを強制する文化を作っているのは紛れもない私たちなのです。それを保持するのは私の中にある恐怖心ではないでしょうか。

その恐怖からの自己防衛がこの偽善的な文化を築き上げたのではないかと私は思うのです。

私の中の愛を罪とせず、それを一生懸命育てることがこれから生まれてくる子供たちのためになるのです。

それはありのままを非難も正当化をもせずに完全に肯定し、観察するところから始まります。

矛盾と偽善でいっぱいの私たちが変わらなくてはなりません。それは、ただ目の前にある愛を受容するだけで良いのです。