未知

神経症の患者に未知なことを徹底的に避けて生きる人がいます。ものすごくわかり易い例だと、好きな子に告白できない子。相手が自分のことを好きだと確信が持てないと、自分から話しかけることができない子などです。大なり小なり人間にはそのような性質があると思いますが、全面的に一生を終えるまでそのような生き方をすることがあります。未知とは、本当に大変なものです。私が発した言葉がもう既に未知です。それは、私の意図なく出現する言葉なのです。何らかのシステムが脳内で動いていて私を動かしているとしか思えないのです。それは、私がこの肉体から離れたときに起こります。思考が流れ出します。その仕組を知ることができるのは思考でないときだけです。私が思考でないときだけです。思考を私とし、そのように生きると全く観察ができないのです。その思考は常に防衛的な反応を見せます。自身の脳から生み出される思考に私が恐れおののいているのです。思考に寄り添う私がいます。それが思考を監視し、思考の流れをせき止めたりします。思考に干渉しだし、感情体を操作しだします。思考と共に歩む私は、思考がないと生きていけません。その私は、完全な錯覚によって生み出されたものです。思考は本来未知なものです。思考はそれ固有の機能があり、持ち場があります。それは、自然と生まれてくるものです。私が、思考にくっついているとその機能はことごとく機能を阻害されます。まるで、羅針盤に強力な磁石をくっつけたときのようにそれは起こります。羅針盤の針は正確さを失い、その機能を完全に磁石に阻害されるのです。思考に私がくっつかないときに思考はあるべき姿を取り戻します。それは、未知な動きです。思考が予測できない動きです。なぜなら、動機を持たないからです。動機を持たない時それは未知です。例えば、猫の動きは未知です。完全に予測することなどできません。未知である思考を操作するのは私ではありません。私とは錯覚です。思考は道で寝転がる猫のように未知です。それを操作しようとするのは誰でしょうか。思考を操作できると思っているのは誰でしょうか。思考は誰がどのように発生させているのでしょうか。思考の中には内容があり時間があります。思考にくっついた錯覚の私はその内容を本当のこととしています。内容は内容に過ぎません。内容などいくらでも作り出せますが、その内容は全く現実性のないものです。単なる空想です。単なる空想にはそんな重要性はないはずです。それは偽物です。常に未知があります。奇跡的な未知が今起こっているのです。それに意味はありません。それはただ現れるべくして現れているのです。ただそうあるだけです。それはもう過ぎ去りました。なのでそれに執着ができません。もうそれはないのです。今が全てです。それは、何にもなれないのです。本当の私は言葉にできないのです。言葉にした瞬間にそれはもう過ぎ去るのです。決して掴むことも捉えることもできません。今は常に動きそして新鮮で、変わりつつあります。常に変わっているので、それを言葉で捉えることなどできないのです。私は生まれつつ死につつあるのです。その私に執着する術はないのです。

Posted by kazuki