期待

最近思っていることは、私は人に振り回されて生きているということです。本日も、人に怒られて凄く思い詰めました。私の人生で起きてきたことは、他人の期待に添えないと他人が怒るというところに有ります。私は、他人が私の思考に向かって憤慨するところにとてつもない恐怖を抱いて来ました。私は他人が素直でないことに常に気にかかっていました。何故かというと、他人は自分のことをよく解っていないことを理解していたからです。他人は憤怒しますが、私がその理由を聞くと、答えられないのです。そして、もっと憤怒するのです。そんな経験が多くありました。なので、私は、その人の精神がどのように出来上がっているのかを推測し、検証し、実証し、理解に至る方法を探すよりほかなくなりました。何故かと言うと、いつその人が私に向かって怒りをぶつけてくるかわからないことの不安にいつも支配されていたからです。それは、私にとって精神が憔悴してしまう要因の一つでした。とりわけ、人の憤怒に関して相当の恐怖を抱いていたものですからそれを回避する方法を常に探し考えていました。今になって、人が憤怒する原因なり仕組みをかなりの精度と信頼性を持った推察をすることができるようになりましたが。それでも、他の部分に私の精神を憔悴させる要因が残っていました。それは何かというと、その人の前では、その人の憤怒する行為を避けなければならないということです。私は、自身の身を削ってその演技をせざる負えないときが多々あることに気づいていました。その人と関わるときはいつもそのことに留意し注意して、関わることを常としたのです。つまり、いつも緊張状態で、自己抑制を行わねばならない状態でした。私は、それに気づいた時、結局他人の胸の内を推察できるようになったとしても、その人と関わることがどのみち自身の精神を憔悴させてしまうことに納得しなくてはなりませんでした。その人から完全に離れ、関わりを無くす方法。それともう一つ方法が存在することに気づいていました。それは、傷つかない精神を持つことです。どんなに他人を分析し、理解したとしても、自己を抑圧せざるおえないのなら私は、隠者にでもならなくてはなりません。しかし、その隠者の道おも、逃れる方法があるとしたらそれは、傷つかない精神を身につけることだけです。他にも選択肢としてあげられるものがあります。それは支配者、世間の権威主義の中の権威になるというものです。ある程度の権威を得ることができれば、その地位より下の者には盲目的な崇拝と支持を受けることが出来ます。しかし、私はそれは選択肢として全く取るに足らないものなのです。なぜならそれは、多くの精神的脆弱性と多くの鈍感さを要求するからです。盲目性を私は好みません。崇拝も好みません。権威も好みません。権威を目指したときのあの自己矛盾も好みません。そしてそれに伴う神経症的な強迫性も好まないのです。傷つかない精神はどのようにしてやってくるのでしょうか。私は、隠者になるもそこまで抵抗はないのですが、できるのであれば、この社会の中で傷つくことをやめたいと思っています。傷つくことをやめるということは死を意味します。死といっても肉体の死ではなく、自我の死です。偽りの精神の徹底的な拒否によってなされる死です。心理的な時間を否定した状態です。その時私は無選択に全てを包含します。完全に現れる全てに無抵抗の気づきを持ちます。私は全ての動機を手放します。生まれた瞬間死んでゆく精神に完全に殉教するのです。どんな思案も、結局は私をその方面へと導きます。決して生命が在る限り、熟考を止めることはないと思いますが、あらゆる思案のもと帰依するところが在るのではないかとこれらは私に示唆するのです。

Posted by kazuki