愛しているから叱るというのは親のエゴである

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私は、愛しているからと言う理由の下で他人に巧妙に支配され、利用され続けた経緯がある。私の場合は親ではないけれども。

愛しているから叱るという行為は、自己を正当化し、自己の利益のために相手を利用する人のすることである。

この自己正当化に利用され続ける子供は、この親の偽善を見分けることが物凄く難しい。

それはなぜかをこれから枚挙し、僅かではあるが解説をする。

親の自己正当化を見抜くのが困難な理由

正当化はその性質上、自分を正しく見せるために使えるもの全ての説明を自分の都合の良い解釈に変換し弁明する。

その一つに、文化的観念の利用がある。

例えば、利己主義と利他主義という言葉がある。これは人は支え合って愛を持って生きるべきだという価値を自分の都合のいいように解釈し、相手が少しでも自分期待に沿わなければこれらの価値観を持ち出し、お前は愛がなく、利己的だと非難し、お前はおかしな子で、そのままでは世間の人間には相手にされないし、生きていけないぞと脅し、けちょんけちょんに非難するのに利用されるのである。

そして怯えた子供を従順にさせるのである。

この文化的観念を一般化して子供を非難するのは物凄く強烈な恐怖感を子供に抱かせるに至る。この一般化を用いることでこの親は全ての人間や文化を自己正当化に用いることができるのである。

すると、子供は世界の全ての人が私のことを非難しているのだと捉える。

あとはこの親は、何かにつけて権威性を誇示する。そして、権威には使われるのが当然であり、その権威に反抗することは道理的に反するということを暴力的に教育する。

子供は親や一般人が強いてくるあるべき姿になれていない自分に罪の感覚を抱くに至る。そして朝から晩までこの恐怖とともに過ごすことになる。そうすると子供の精神はズタズタに引き裂かれる。

その時、子供は救いを求めるであろう。この子供にとっての救いは、自分の身の安全と心の安心感を得ることである。その為にできることは、親の期待や要求に従順になる事で親に気に入られることである。

こうして親は子供を利用し支配できるわけである。

「愛しているから叱るのだ」これはただの弁解と正当化である。

この親に愛と理解などない。あるのは決めつけと自己正当化だけである。

それは、愛という言葉を自分を正当化するためだけに使い、子供を支配し、利用しているただのエゴの塊なのである。

言葉も経験もどんなものでも本当の愛のために使って下さい。決して暴力的なことに使わないで下さい。私が唯一祈るのはたったこれだけのことです。