「元々こうである」といった考えに固執した時「何故」という探求は終焉する

「元々こうである」という考えは、探求の終わりを意味することは誰もが納得するところのものであろう。

こうであるという推断を人間は何故行うのかというと、推断によって想像上に論理的な構造物を組み立てることが可能になるからである。

しかし、その構造物の脆弱性は推断した事柄が事実に即しているかどうかに左右されるのである。

想像上の構造物が最も優秀に機能するのはその前提を構成する基礎の部分を「どれだけ事実を反映したものとするか」にかかっている。

そのために行うことが「何故」という探求である。この何故は全ての想像上の構造物の基礎を徹底的に強化する役割を持っている。

人間的に一貫性を持ち、安定した人格を体現したいと個人が思うとき、この取り組みが必要不可欠なものとなる。

「元々こうである」という推断。もしこれが事実に基づかないものであるのなら、成長と発展はある一定の地点より、先へは進めなくなってしまうであろう。

これらのことからわたしたちは、「何故」という探求を怠ってはならないのである。

もし「元々こうである」といった盲目的な断定が肥大していくのであれば、人間と人間の関係はますます皮相的なものとなってしまうだろう。そして、ますます多くの争いや破壊を生み出してしまうことになるのであろう。

Posted by kazuki