死にたいという言葉に含まれる本当の意味

死にたいという心の状態になることがある。心の中で死にたいという言葉を連呼することが私にはよくあった。この状態が何を意味するのか私は今まで理解し損なっていた。今日、その状態についての新しい発見というか、閃きがあったのでここに書き記しておく。

死にたくない

結論から先に書くと、死にたいという言葉が出るときそれは、その中に死にたくないという意味が込められている。死にたくないとはどういう意味であろうか。それは、希望を失いたくないという意味である。すなわち、希望を失うことが死ぬことという意味である。

絶望

死にたいという言葉が出てくるとき、必ず私は絶望的な感覚の中にいる。それは、希望を失っている。あるいは、失いかけている状態である。

希望を失いかけている状態というのは、どのような状態であろうか。それは、心の安定を保っていた保証や依存の対象や希望が失われてしまうという状態である。それは、もはや心の拠り所としての機能がなくなってしまうか、なくなってしまいそうなときに私は、絶望するのである。

“死にたい" の本当の意味

死にたい。それは、心の拠り所となっている希望がその意義を失いかけているときに発する言葉である。この言葉をもっとよく言い換えると、「希望を失ってしまうのなら、いっそのこと死んでしまいたい」「絶望に出会うよりかは死んだほうがマシだ」「絶望から逃げたい(死にたい)」などとなる。

絶望と共に生きたくない

希望を失うこと、絶望と共に生きることを恐れ、それから逃れるために私は奮闘してきていて、それから逃れられなくなりそうなとき、死にたい(嫌だ・逃げたい)というのである。

死の拒絶

絶望と共に生きることが「死」である。そして、私は絶望と共に生きたくない – 死にたくない – のである。そして、私が唱える「死にたい」とは。死と共に生きたくないという意味なのである。

「死と共に生きたくない。死と共に生きるのなら、死んだほうがマシだ。」

「死と共に生きたくない。死と共に生きるよりかは死んでしまいたい。」

私がこのことに気づいたのは、この本のタイトルを見たときでした。

絶望は嫌だ

つまり、死にたいと発言するとき、私は、「絶望は嫌だ」と言っているのである。そして絶望しないように奮闘することこそが、人間の病的な強迫性を生み出しているのであり、その強迫性に支配されている精神状態がいわるゆ神経症なのである。