解釈は観察されるものである

2018年5月1日

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私が何かしらの対象に反応するとき、私は対象を解釈し、その解釈をもとにして反応しているのである。

その解釈はどこからやってくるのかというと、私の過去の経験や意味内容からその解釈がやってくるのである。

すなわち、対象の知覚は私の過去ということである。ある人のことを嫌に思う私の反応があるとしたら、嫌だという感覚は私の過去である。すなわち解釈が私なのである。

人間は物事をありのままに見ず、常に全ての物事を解釈し、意味を与えている。

その意味が、私なのである。私が対象を嫌悪するとき、それは私が私を嫌悪しているということである。

解釈自体が私の表れであるからである。

すなわち、対象を解釈した時点で、対象はすべて私ということである。

意味づけをした瞬間にそれは私である。私が私に反応しているのである。それゆえ、解釈は観察されるものなのである。

追記

2018年5月1日

対象を解釈する時、私は反応する。

例えば、目の前でおならをした人がいるとする。

その時、私はその人のことを下品で下劣で下等で性格も悪く野蛮で暴力的で思いやりがなくて自分勝手な人等々と解釈する。

その時、私はその人に不当な意味付けをしているのである。全く事実とは違う目でその人を見ているのである。

事実はおならかもしれない音が聞こえただけであり、それだけなのに、それにものすごく膨大な料の解釈を付与し、それを真実であると受け取ってしまっているのである。

そのときに、私の中に意志というものが生まれ、行為という問題が生まれてくるのである。

行為の中に矛盾や葛藤が含まれている時、それは事実から離れた解釈から生まれてきているものであるとのことを自身の中を観察することである。

そのとき、解釈とそれに付随する意志との性質が私から剥がれ落ち、私にとってそれらが観察対象に過ぎなくなっていることに気づくのである。