非言語からの愛

非言語からの愛

言語というものは言語理解という一点へ向かう志向性を含意している。それは、その言語が指し示すものを言語によって捉えようという目的を持っている。言語の理解という、単純な手段には愛というものは入る余地なしである。

つまり、このことから何を言い表したいのかというと、「愛というものは非言語的である」ということが言いたいのである。相手が何を思っているのか、相手がどんな心の動きをしているのか、これらを認知するには言語では理解しきれないということである。これは特に幼児との関わりの際に痛感することではないかと思う。そして、本当の愛や心の通じ合いというものは、言葉を介しては逆にうまくいかないのではないかということが最近感じることなのである。

言語で、相手を理解しようとするとき、そこには、わからないという状態への嫌悪が含まれるのではないかと思う。理解することが目的であるから、その目的が達せられないことは避けたいという思いが存在する。その時、理解できないことを自動的に避けようとする。この回避しようとする意図がコミュニケーション内に含まれるとき、このコミュニケーション内の柔軟性が失われるのではないか。

もし、幼児が言葉をうまく話せないとして、自分の思いを伝えたい場合を考えるとこの考えが生まれた経緯がわかっていただけるかと思う。例えば、幼児が自分の気持を理解してほしくて、他者に関わりを持とうとするとき、幼児と接する者が言語的に理解しようとしたらどうであろうか。おそらく、幼児の思いは通じないであろう。そして、幼児は私の思いは受け止めてもらえないのか、私のことはわかってくれないのかという気持ちになるのではないか。

言語的理解を主としている他者は、言語的な理解が不可能なことに当惑するであろう。この当惑が幼児にも伝わり、お互いが混乱することになる。これでは、コミニュケーションは成立しない。

しかし、コミュニケーションの基本原理を非言語から導くことにすると、この双方の食い違いが解消される。非言語に相手を理解することは困難ではないかと思う人も多いかもしれないが、幼児の養育はとてもとてもこの非言語的な関わりが大きな割合を占めているのである。その中で、本当に徐々に言葉を交わしていくものである。このコミュニケーションの基本姿勢は、非言語なコミュニケーションの全肯定と全行為へ浸透する愛がその根底にあるのである。そこから、言語的関わりが行われていくのである。それは、言語的伝達を期待するのではなく、言語を遊ぶという表現であろうか。言語を覚えて使うことの楽しさを一緒に体験するというものであろうか。

このように、非言語なコミュニケーションがあるとき、共に成長してゆく姿勢というものが自然と備わるものである。愛というものは、おそらく非言語を基底にし、そこから成長への共同作業とその喜びと楽しさを分かち合い、共に歩んでゆくという繋がりに起源を備えているのではないかと感じるのである。

もし、言語理解、解釈を急ぎ、それを得られないことに耐えられないのなら、なぜ自分がそこまで取り乱すのか、動揺しているのかを理解しなくてはならない。それは愛ではないのではないか。もしそう思うのであれば愛とは何なのか。何故自分には愛がなく、愛があるが故の忍耐がないのかを、その全てを自ら暴かなくてはならない。

日記

Posted by kazuki