自己統制は観察されるべきものである

2018年4月27日

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様々な形式の伝統的継承がある。その中には統制を指示する何万もの流儀がある。

私は本当の自己を保留し、それらを一つ一つ試し、これではないあれではないといい時間を浪費していく。

例えば、瞑想の形態を細かく意識し、覚者と言われる人の指示をそのまま適用しようとする。

しかし、それは思考が身体を統制しようとしているのであり、元々の身体を未熟と思考が断定し、思考が身体を成熟に導こうとしていることがその行為から導き出される思考者の意図である。

身体を未熟とし、成熟させねばならぬという根拠はどこにあるのだろうか。

思考が行為に先立ち先行するとき、その行為は断片的にならざる負えない。そして、そこには何も新しいものはない。

もし、その流儀の指し示すところが真実であったとしても、それを思考が理解し、思考が行為に先立ってしまう時点で、それは単なる思考と過去の反芻にすぎない。

この行為そのものが本当の自己というものの顕現を妨害しているのであり、ありのままの新鮮な生命の息吹を否定する者なのである。

それゆえ、自己統制は観察されるべきものであるべきなのである。