機械化の中に愛は含まれ得ない

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誰かに何かを言われて、しかたなくやる時その中に愛はない。

その中に愛が入り込む余地はない。何故ならば、愛は自由と自発性の中に花開くものであり、決して、固定されたものの中から生まれることはないからである。それは機械化されたものでしか無い。

機械化された行為の中に愛は無い。機械化された行為を容認し、自己を機械化することは、愛の否定を容認したこととなる。それは生の否定であり、人間性の否定である。

人間性の否定に加担してはならない。もし、支配的な他者に何かを強要されたら、どうすればよいだろうか。

その時、私はそのような人間ではないと素直に説明するのが良いのかもしれない。貴方は間違っているなどといって教導しようとすると、相手は憤怒するであろう。だからといって、逆に容認してもならないのである。

もし相手を変えたいのであれば、貴方の生き様を見せつけるよりほかないのである。

愛が人の行為に現れてくるには、自由と自発性が無くてはならない。それは、機械化とは真反対の動きである。

心理的な面で、人に従ってはならない。誰かに指示されても、それを遂行するのなら責任は自分が全て負うことを含意しなくてはならない。

常に自分の行う行為には責任が伴うことを実感していなくてはならない。もし、自分が何らかの権威などに従って自己を機械化し、愛を欠いていることを実感したのならば、その権威を全て投げ捨て、自己を全うしなくてはならない。そして愛を発現し全うするために自身の行為に全責任を負う覚悟を持たなければならない。

愛と共に生きる者は、責任転嫁という行為と完全に決別をしているのである。