誇りと傲慢の正体

2018年2月3日

誇りを誇示し、傲慢な人々がいる。これらの人々は何故そのような傲慢さを表現するのだろうか。このことについて少しまとめてみたい。まとめることで、傲慢の正体を見抜き、人間関係をもっともっと建設的にしたいという思いがあるからである。

人はどんな時に傲慢になるのだろうか

自分の価値をどうしても他人に誇示しなくてはならない理由がある人が傲慢になるのではないだろうか。傲慢な人は傲慢にならなくてはならない理由があるから傲慢になるはずである。では、なぜその人は、傲慢になり誇りを誇示しなくてはならないのだろうか。まず、傲慢とは、何かをわかりやすくおさらいしてみる。

傲慢とはどんな状態か

  • 「自分を実際より偉いものだと思い込む。」
  • 「人を見下して礼を欠くこと。」
  • 「人間を尊重せず、他人よりも自分のほうが価値があると自惚れること。」

辞書を引くとおおかたこんな状態のことである。

傲慢に対して思うこと

まず、ここで一つ私の傲慢に対する考えを書いておきたい。傲慢というものの存在意義が私には理解できない。傲慢の背後に潜む意図は、人間支配である。なぜなら、人を見下し、自己に価値を置いているからである。それは、それ自体が暴力的で、非常に危険なものにしかなりえないように感じるのである。

名誉の追求が傲慢を生む

誇りや、傲慢を誇示する精神は、名誉に絶対的な価値を置いている。名誉こそが絶対的普遍的価値だと信じて疑わないのである。それは偏った価値観と言わざる負えないだろう。なぜ、わざわざ、人間を価値のある人間と価値のない人間とに分けるのだろうか。そして、なぜ、わざわざ、自分に価値を付与し、他人を見下すのだろうか。それは、自分だけが良い思いをし、他人を搾取しようとする利己的な意図がその根本にあるのではないだろうか。この価値観に固執すると人生は闘争ばかりになるのではないか。現に誇りと傲慢を誇示する人々はとても暴力的なのである。

名誉こそが絶対とする価値観

この名誉こそが普遍的絶対であり、名誉こそがこの世で最高の価値があると思い込んでしまった者が、恐らく、誇りと傲慢さに固執し、破壊的な人格になってしまうのかと思うのである。そのような価値観を幼少期に教わり、そのような道徳観を教育された者にとっては、この価値観を絶対として生きていくことになるのだろうと思われる。

結論

私は、誇りと傲慢に関して肯定的になれない。私は、これらに、愛や優しさや、建設的な性質を一切見い出せないのである。名誉追求、誇り、傲慢の一切ない境地に人々が協力する時、愛と優しさと団結力が生まれ、人間は建設的になり得るのではないかと感じるのである。

追記

2018年2月2日

本当に誇れるものは愛である

誇りという言葉を使うのであれば、それは愛から出てくるものでなければならないと私は思う。例えば、嘘偽りなのない本物の愛で家族が繋がっていることを誇りに思うなど。それが、自分の実績を誇りに思うとか、世間に認められる賞を獲得するとか、それらの事に誇りを感じてしまうと、前述のような愛のないものとなってしまうのだと思うのである。それは、世の中に認められることに価値を置くのと、本当の愛に価値を置くのとの違いではないかと私は思うのである。