心理的な恐怖の存在意義

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非難されることを恐れて

非難されることを恐れて、歌を歌うことをやめた。非難されることを恐れて、笑うことをやめた。非難されることを恐れて、話すのをやめた。非難されることを恐れて、自分から進んで奴隷になった。非難されることを恐れて、生きることをやめた。それで、私は老いていき、死んでいくのである。非難されることが何故、そんなに怖いのだろう。私は何故、非難を避けるのだろう。何故私は、観念の下敷きになっているのだろう。

そうしなくては暴力を振るわれる

応答しなくてはならない。そうしなくては暴力を振るわれる。元気でなくてはならない。そうしなくては暴力を振るわれる。規則を守らなくてはならない。そうしなくては暴力を振るわれる。道徳を盲信しなければならない。そうしなくては暴力を振るわれる。観念や価値観を採用しなくてはならない。そうしなくては暴力を振るわれる。人間の快楽や現実逃避に協力しなくてはならない。そうしなくては暴力を振るわれる。観念を採用している人間は、暴力を容認しているのである。その暴力の芽を内包している人間がとても恐ろしいのである。

暴力を内包している

期待を持つ人間は暴力を内包している。快楽欲求は暴力を内包している。現実逃避欲求は暴力を内包している。そのどちらも観念が内に含み持つ性質なのである。

恐れていれば

恐れは自我の快楽を満たすために役立つ。恐れていれば、楽ができる。恐れていれば、人に甘えられる。恐れていれば、ありのままの生を直視せずにいられる。恐れていれば、自立しなくてすむ。この快楽を手放す時、恐れは自ずと消える。暴力を恐れる精神は、恐れることによって、暴力の存在しない世界を生きようとしているのである。そして、まさにその恐れている精神そのものが非難や暴力の正当化を行い、保持し、永続させているのである。恐れることをやめ、ありのままの全てを直視しだすとき全責任が自分のものとなる。そのときにのみ、愛や喜びや思いやりが生まれてくる可能性があるのである。

孤独を生きる

全ての保護を離れて孤独を生きることを選ぶとき、そこには精神がすがりつけるような避難所である保証も慰めも安心もない。この状態に佇むとき、心理的な恐怖は存在意義をなくすのである。人は本来、皆孤独であるのである。この真理を理解するとき、自ずと人は日々を懸命に生き、生命本来の輝きを取り戻して行くのである。

日記

Posted by kazuki