自己疎外について

自己疎外という言葉について考えることにした。辞書をひくと、自己疎外とは、精神や理念が自己を否定して、よそよそしい他者となることとある。

精神や理念が自己を否定するとはどういうことだろうか

本来の自己と思考という自己を定義する

本来の自己とは、思考や観念を用いて、判断される前に存在するものである。何故なら、思考や観念は、作られたもので事実や真実を解釈する仕方にすぎないからである。

本来の自己とは解釈の仕方ではない。何故なら、解釈の仕方は、空想上に作られた観念にすぎないのであり、実際に存在するものの実在や本性に偏見を与え、解釈してしまうものであるからである。即ち、思考は本来の私ではないということである。すると、思考以前の本来の自己と、思考という自己の2つの自己が認識されることとなる。即ち、自己疎外とは、思考という自己が本来の自己を否定しだすことを説明する言葉なのではないかと思われるのである。

すると、何故、自己疎外という現象が発生するのかという疑問が生まれる。次はその疑問を考察する。

自己疎外が引き起こされる原因

自己疎外が引き起こされる原因の一つは恐怖である。このことについてこれから説明を行う。

人は、最初は本来の自己を顕現し、生きる。何故なら、人は始め思考を持たないからである。この状態のことをこれから “”本来の自己”” と呼ぶこととする。その状態で、生きる時、思考を用いる人間から、人生の意味を含むあらゆる道徳観や、倫理を強いられ、教え込まれる。このことをこれから “”強いられた道徳観”” と呼ぶこととする。

子供は、初めは本来の自己そのものである。しかし、殆どの場合、思考を用いる大人や教育者に前述の道徳観を教え込まれ、信じるよう、権威を用いて説得させられる。この説得に屈服することができなければ、子供は大人や教育者に心理的な暴力や肉体的な暴力を振るわれることなる。このことは大人や教育者によって躾けという正当化の下に施行される。大人や教育者は正しく、本来の自己であることや、子供であることは罪であるという感覚を子供に抱かせる。

強いられた道徳観を受け入れないときや、疑問を持ち、探求しようとするとき、その行為自体を罪とし、大人や教育者は罰を与える。

その時、子供は、本来の自己を否定することを選ぶ。本来の自己というものは罪深いものであり、大人や教育者が殉教せよという強いられた道徳観を信じ、発達させることを選ぶ。何故ならそうせざる負えないからである。子供は無力であり、大人や教育者の暴力の下に晒されることは、非常に危険なことだからである。本来の自己を否定すれば、大人や教育者から好かれ、安心することができるからである。

即ち、権威を用いる大人や教育者等々に暴力を振るわれるかも知れない。という恐怖が自己疎外という状態を必然的に生み出すのである。このことが、精神や理念が自己を否定するということであると私は推定し、理解する。

Posted by kazuki