怒り、悲しみ、苦痛を真剣に見つめること

怒り、悲しみ、苦痛を真剣に見つめること

様々な人間が存在する。その中で、私はとても大きな苦痛を感じる。それは、心理的、肉体的暴力である。暴力とは何であろうか。それは、理解を放棄した精神の行為ではないだろうか。

心理的暴力、及び、肉体的暴力はなぜ起きるのであろうか。それは、どのようにして起きるのだろうか。それに答えを見出すことはとても難しいことであるが、私はそれに着手したい。

私が、怒りを感じるとき、それは理解に向けるエネルギーを誘起させる。多くの人はこの怒りのエネルギーを他者へと向けるのではないだろうか。

他人から心理的暴力、及び、肉体的暴力を受けたとき、人は怒りという多くのエネルギーを生み出すかもしれない。しかし、人がそれを暴力という方面に用いるとき、そこにはより多くの破壊が引き起こされるだけである。

心理的暴力、及び、肉体的暴力を被るとき、人はなぜ怒りを感じるのであろうか。このことを人は熟考し、理解するべきではないだろうか。

その時、新たなことに気づくのである、それが人間を成長させることになる。怒りとは何か?それは、どのように発生するのか。それは決して盲目的に解釈されてはならない事柄なのである。それは、真剣に観察して理解されなくてはならない。

なぜならば、この怒りの無理解がとても多くの悲惨と破壊をもたらしていることを観察できるからである。人はこのことに気づかなくてはならない。

そして、真の理解をその中にもたらさなくてはならない。そのエネルギーはどこからどのようにして引き起こされたのか、そのエネルギーはどのように用いられるべきなのか。そのエネルギーはどのような性質を持つのか。そのエネルギーの形や感覚、微妙な味わい、芳香。それをまず、理解することがとてもとても大切なことなのではないでしょうか。

暴力はどのようにして起こるのか。自分の中にその性質はないのか。人はまずこのことを調べなくてはならない。そして、もし自分が行っている暴力を正当化するのなら、その人は理解していないのである。

肉体的な暴力を受けた時、自分の生命を守るために必要な行動を自らの肉体が反射的に行うことは正常な反応ではないだろうか。それは思考の反応ではなく、事実の反応である。

しかし、心理的な暴力と怒り、その復讐はなぜ起こるのだろうか。それは、無理解から引き起こされてはいないだろうか。このことを理解せずに、怒りに身を任せ、暴力を現実化する時、何が起こるのだろうか、それはより一層多くの暴力を生み出さないだろうか。それは際限なくどんどん悪化するのである。そして、暴力を正当化する数多くの人間がそこに生まれはしないだろうか。

そのような世界を作っているのは誰だろうか。紛れもなく私たち一人一人の個人なのである。そのため、真剣に自分自身を見つめることは大切なことなのである。そして、理解しなくてはならないのである。そして、何が起きているのかを見なくてはならないのである。

もし、人が暴力を非難しているのであれば自分自身が暴力を生み出していないかを調べなくてはなりません。そして、どうかその全構造を見て、理解することです。理解のない人は、暴力を非難しながら、暴力的なのです。それに気づかなくてはなりません。

日記

Posted by kazuki