対人関係における無意識なストレスの正体

人と関わるとき、得体の知れない疲労感を感じたことはないだろうか。この記事ではこの得体の知れない疲労感を分析し、その原理を解明してみたいと思う。これは、暫定的な推測にとどまるものである。
抑圧的な感覚
では一つ一つその発生過程を明らかにしていこう。このストレスの発生過程を観察してみると、抑圧的な感覚があることに気づく。思う存分に自然に生きようとする自分自身にブレーキをかけている感覚である。
抑圧への反発
そして、その後に強い反発が生まれていることがわかる。抑圧すると、反発があることは様々な人がいたるところで経験しているだろうからわかるかと思う。
人間全般への嫌悪感
そして、その反発は外界へと向けられている。外界とは人間関係全般のことである。そのとき、人間全般に対して抑圧感や嫌悪感、憎悪感、煩わしさ、鬱陶しさ等々を感じるようになる。
そして、このストレスや疲労感は人間や社会の仕業で引き起こされていると感じるようになる
対処法によるストレスと疲労感
ここまでの一連の流れを見ていくと、人間全般が私に抑圧を与えてくるので、それに対処しなくてはならないことがストレスや、疲労感を引き起こしているのだと考えていることがわかってくるだろう。
意図的に思い込む
これをもっと深く調べてみると、新たなことがわかってくる。それは、人間からの暴力を回避するために、意図して「私は人間全般から抑圧を受けている」と思い込んでいるということである。
暴力を回避すること
この考え方には、ある前提条件が含まれている。それは「私は人間全般から抑圧を受けており、それを甘受しないと暴力を振るわれる」である。
この条件が精神内部に打ち立てられるとき、必然的に「暴力を回避しなければならない」という切実な欲求が芽生えることだろう。
自己抑制
その欲求に見合った行動を私は人間関係において行うのである。そして、それが「自己抑制」であり、自己の自然な機能を抑圧するものである。この「自己抑制」が対人関係における無意識的なストレスの主な正体である。
自然な感受性への警戒
この「自己抑制」の有害な点は、自己の自然に感じることのできる感受性全てに干渉してくる点である。
自己の自然な感受性が現れる頻度に比例する形で、自己抑制が働くので、この疲労感は慢性的なものとなる。それは人と関わっているときにずっと働くので、人と一緒にいれば一緒にいるだけその人は消耗していくことだろう。
自然な感受性の抹消と停止
このような状態が続くとき、この人は消耗し続けることを嫌悪するので、疲れないように様々な対策をとるようになる。
例えば、対人関係から引きこもることだったり、自分の自然な感受性や自然な反応の全てを存在しないものとして扱ったりする。
中心的な動機
この人は、ある一つの欲求を達成するためにあらゆる幻想を作り上げていることに気づいていない。その欲求とは、「人から軽蔑されたくない」である。
回避の手段 : 事実の捏造と結晶化
この人は、人から軽蔑されることを回避するために、今まで述べてきた全ての観念を結晶化させてきている。そして、それは、その人にとって「事実」のように扱われる。その人にとって、それはまぎれもない「事実」なのである。
このようにこれらの観念を断定、結晶化させなければ、その人は「人から軽蔑されること」の回避に向けた行動をとることができなくなるのである。
すなわち、その人はその欲求「人から軽蔑されたくない」を達成するためにこれらの幻想の全過程を始動させるのである。
この幻想の停止は「人から軽蔑される恐怖」に対して無防備になることを意味する。言い換えると、この幻想の停止は自己防衛的態度を完全に止めることを意味する。
幻想の根絶と一掃に向けて
これらの幻想、及び、対人関係における無意識なストレスを完全に一掃するための因子はなんであろうか。それは、今述べた一切のことを自分自身で実際に観察し、自分の中のその反応全てを完全に経験し理解するとき、のその理解それ自身である。
幻想の固着を促進させた因子
この人の根本的な信念の部分に光を当ててみたい。この人は、人間からの暴力(主に人間からの軽蔑、及びそれに基づく仕打ち)を回避するために、意図して「私は人間全般から抑圧を受けている」と思い込んでいる。と前述において説明したが、どんな要因に起因してこのような信念を築き上げるに至ったのだろうか。
支配的、専制的、奴隷的な教育
それには、様々な要因があるのだろうが、その代表的なものは幼少期、及び児童期、青年期に受けた教育である。
この人は、主に「何かをしたらひどい仕打ちを受ける」という信念に立脚した教育(支配的、専制的、奴隷的な)を受け続け、その教育が適用、周知された環境の中で怯え、傷つき、緊張しながら長い間、生きてきているのである。
非難と排除、罪と罰、人間性の否定
例えば、持久走ですぐに疲れてしまうことに対してよく叱られたかもしれない。友達や家族に自分の笑った顔を執拗に貶され続けたのかもしれない。
学校であった楽しかった話を親にしたら、自分のことばかり話して自己中心的だと批難され、話を聞いてもらえなかったのかもしれない。
とても真っ当な自己の正当性を訴えたときに、でしゃばりだとか、思い上がるなとか、立場をわきまえろとか、わがままだとか、クズだとか、よくそんなことがいえるねとか言われ、個人が持つべき最低限度の人権さえも剥奪され続けたのかもしれない。
ここに挙げたのは一例にすぎないが、たったこれだけでも、今まで述べてきたような幻想の必要性に意義を与える要素としては十分なものである。
教育とは何か
この点を加味すると、子供の教育にも一定の方向性というものが生まれてくる。そして、この点「幻想の必要性生み出してしまう環境の排除」が教育の一つの意義ともいえることがわかるのである。
具体的な事例
このストレスや疲労感の表現されるわかりやすい一般的な事例がある。それは過労の問題である。
学校や仕事を休むのに真っ当な理由が存在するのに、その理由をこの人は僭越であると早急に判断を下し、何が何でも通勤通学をする。
1日中一切の休憩も挟まずに受験勉強をすることを当たり前だと考えている人は、集中力のとぎれる自分自身を能力の低い人間だと非難するかもしれない。
この自己非難を避けるために、何が何でも勉強を続けるかもしれない。
人から軽蔑され、人間として扱われないことを怖れ、そのような状態に陥ってしまうことを回避するために、これらのあらゆるを無謀な努力を行い続け、疲れ果てるのである。