人生とはやってくるものの認識の連続である

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彼は時々こんな気持ちになる。

「こんなことをしていて何になるんだろう。」

そして、なんともいえない罪悪感のような漠然とした不安に包まれる。そして、無力感と自信の欠如が引き起こされ、それを認識した彼はもっともっと不安になる。

「どうにかしなくてはならない。」
「無力感と自信の欠如をどうにか回復させなくてはやっていけない。」

そして彼は、自分に自信を付けられそうなあらゆることを目論み、それを追求しだすのである。

どんな対策も水泡と帰す

しかし、どんな対策を試みてもあの無力感と自信の欠如はよくならないのである。そして、またもや彼はこんな気持ちになる。

「こんなことをしていて何になるんだろう。」

そして、彼は他の方法を考える。ときには実業家になり、ときには宗教家になり、ときには浮浪者になったりして気楽な生活を送ってみたりもするが一向に無力感も自信も回復しないのである。何かを達成したときや皆に感謝されたとき、森に行って癒やされるなとのときには一時の幸福感を味わえるが、またすぐにあの無力感と自信の欠如の感覚がやってくるのである。

「こんなことをしていて何になるんだろう」
「どうにかしなくてはならない。」
「無力感と自信の欠如をどうにか回復させなくてはやっていけない。」

なぜ彼はこんな気持ちになるのであろうか。

安心欲と代償

恐らくこの気持ちの根底には「私は安心していなくてはならない」という安心欲があるのではないかと私には思われるのである。

そして、ある信念「私は安心できるべきであり、安心できなくてはとてもこの世でやってはゆけない」があるのではないかと思われるのである。

さて、永遠の安心などというものはあるのであろうか。真の自信というものはあるのであろうか。

どれ程、財産を蓄えたとしても、起業して会社が利益を上げたとしても、それで安心は得られるのであろうか。逆に不安や恐れが増えていないだろうか。

どれ程、宗教に熱心になり、大多数の人間から慕われようとも、真の自信には繋がらず、恐怖とプライドだけが大きくなってはいないだろうか。

確実なものと不確実なもの

この無力感や自信の欠如の感覚。心にポッカリと空いた底なしの不安感。

彼はこれらを埋めるために、確実なものを追い求めてきた。けれども、どれもこれも何とも不確実でなんと脆いことか。そして、それが崩れてしまうことを恐れている自分がいることに彼は気づくのである。

そして、彼はこのように思うのかもしれない。

「もしかしたら、確実なものなどこの世には存在しないのではないか?」

ある気づきと生き方のシフト

そのとき彼は、あのとてつもない不安を埋めるために、確実なものを追い求めることが些かの意味も持たないものであったということに気づくのかもしれない。

「もうやりようがないではないか。何をしたって不安は保証されやしない。」

そのとき彼は、心にポッカリと空いた底なしの不安感から逃げることを諦めるのかもしれない。

そのとき、彼の生き方は確実なものを追う生き方から、現れるものをそのまま経験する生き方へとシフトするのである。

向こうからやってくるもの

彼は、追うことをやめ、来るものに対応することに身を尽くすのである。

そのとき、彼は自分の行動がなんの努力もなしに、遂行されていくことを目の当たりにするかもしれない。おそらくそれは彼の中の分裂していたエネルギーが彼そのものに集約されているからである。

そして彼は、心の深い底なしの穴のことを次第に忘れてゆくのである。そして、いつの間にか穴があったこと、漠然の不安があったことすら忘れてしまうのである。

そして時が過ぎ、彼に尋ねる者があるかもしれない。

「先生。不安で仕方がないのです。どうすればよいですか。」

彼はそのときに初めて、気づくのかもしれない。

不安など初めからなかったということに。存在するのは人生という向こうからやってくるものがあるだけであったということに。

エッセイ

Posted by kazuki