あるがままを達成しようとする精神は理解を放棄した精神である

2018年5月1日

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あるがままを受容しよう。自然に生きよう。それらを私が思うとき、その行為自体が現在の拒否であり、理解のない動きである。

なぜなら、私は今あるがままではないから、自然でないからあるがままに、自然になろう!としているからである。

虚偽を虚偽として見つめるとき、私はあるがままでしかいられないのである。即ち、徹底的な注意力とともに理解への好奇心と観察がある時にあるがままになっているのである。

あるがままの状態というものは、そういう二次的な副産物なのである。

現実逃避があるときに目指すという行為が生まれる

なぜ、あるがままになろうとするのだろう。それは、現実という恐怖から逃避し、安心したいからである。

恐怖からの逃避が苦痛を生み、その苦痛を逃れようとして、あるがままという概念を採用し、その状態の達成を目指すのであるが、目指すという行為自体が既に理解をやめた精神が行う逃避の結果なのであり、それがまた多くの苦痛を生んでいるのである。

目指すという行為は、理解をやめた精神のなせる技であり、期待や希望を抱いている。希望を抱くとき、その希望を達成すれば私は安心できると思い込み、それと同時に達成できないのではないかという反対物がその観念の中に存在させられる。

それは絶望というものである。それゆえ、絶望に怯えながら必死に希望を目指す精神が出来上がるのである。

それゆえ、あるがままであろうとする意志はあるがままの逃避から生まれた結果であり、理解をやめた精神が虚構の上に安心を求めた結果打ち出された目的に過ぎないのである。