3つの自己

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自己を観察してみると3つの私がいる。

1つは本音の自己。2つめは道徳的な自己。3つめはその2者を観察している自己。

自己理解は3つめの自己であるときに初めて可能になる。

これらを冷静に見つめることを妨害してくる要素がある。それは恐怖と呼ばれるものである。

本音の自己をこの世で表現すると、他人から白い目で見られる。そして、世間で生きていくことができなくなる。といった恐怖である。

この恐怖が2つめの道徳的な自己を頑なにするのである。そして、多くの場合、殆どの人々がこの道徳的な自己を本来の自己として誇ることになるのである。これは、俗にプライドと呼ばれるのである。

その時、本来の自己は忘れ去られるか、獣のような罪深き下劣な欲望などとして人々の目に映るようになる。そして、ついにはこの性質を完全に否定するようにさえなるのである。これは、いじめや差別などに発展する。

自己は3つある。それは本来の自己と道徳的な自己とそれら2者を観察する自己である。

それらはどれが優れてるも劣ってるもなく、ただ存在しているのである。

偏見を持ち、どれか一つを悪とみなしたり善とみなしたりするひとは、恐怖に純粋な観察を妨害されている。

このことを理解し、実際に観察するとき、全てが調和した1つの自己として現れる。それらは統合され得るものなのである。

それが全的な人間なのである。いわば、これが本当の真の道徳的な自己なのである。