人に物事を教えるときの注意点 人間的な温かさとコミュニケーションの正確性の統合へ

人に物事を教える時は相手が完全に聞く気になっていなくてはならないし、相手の準備が完全に整っていなくてはならない。例えば話し相手の理論の合理性が破綻していることを私が見出したとする。それを相手に理解させようとするには何個かの必須条件が揃っていなくてはならない。

  1. 相手がこの問題へ取り組めるだけの人生経験を経てきていること
  2. 相手がこの問題へ取り組めるだけの発達段階にあること
  3. 興味・関心がその対象[自己内部]へと向いていること
  4. 相手の発達段階に完全に合致した言葉で説明が行われること
  5. 話の合間合間に相手が話を理解するための時間を与えてやること
  6. 相互理解が完全に成されているという実感のもと、話が進められること

これらの必須条件が揃っていない時は、たとえ相手の論理的合理性の破綻が顕著であろうとも相手の論理の修正に私が干渉すべきではないのである。

理由は下記のものである。

相手がこの問題へ取り組めるだけの人生経験を経てきていない場合

人は、自分が経験したことでないと本当の理解は出来ない。たとえば、火傷をしたことのない人に火傷のあの独特の痛みを理解してもらうことは出来ないのである。

すなわち、その人の人生経験によって、その事柄がどれほど重要なことなのかとか、こうするとどうなるだとかを考えるたり認識することがまだ出来ないのである。

そんな中、とある話題をその人に話しても、全く理解は追いつかず、単なる意見の押しつけとなってしまいかねないのである。

人は相手が自分の話していることを理解してくれないとひどく落ち込んだり怒ったりしてしまう。しかし、それをされた当事者[相手]は自分が悪いと思ってしまうだろう。例えば感受性の強い子どもがそんなことをされたら、「上手く理解できない自分のせいで怒られた」と思ってしまうだろうし、「理解できない自分のせいで相手が落ち込んでしまった」と自分のことを非難してしまうことだろう。

「そんなことはないよ。君は、まだ理解できなくて当然なんだ。君は君の気持ちに正直に生きていいんだよ。君のことで色んな人が怒ったり悲しんだりしても、自分のことを責めちゃだめだよ。君は君の思うがままに自分を信じて生きていいんだよ。僕はそれを応援するし、君のことを見守っている。」こんなことを言ってくれるひとが子どもの身近にいるべきなのである。

相手がこの問題へ取り組めるだけの発達段階にない場合

これも同じようなものであり、相手がこの問題と向き合えるだけの発達段階にない時にこのことを教えようとしてもそれを理解できるわけがないのである。

ものすごく単純な例として、算数を理解していない人に数学を教えようとしても理解できないのである。

このことは誰もが納得するであろう。しかし、人間関係となると急に段階を経て、相手に適したレベルで一つ一つ教えていくことができなくなる人が多いのである。

これが出来ないと、また同じく感受性のある子供などは自己否定をしてしまいかねないのである。

私が相手の人間性を無視してしまっている場合

もし、私が相手の人間性[固有成長発達段階]を無視した状態で、相手の論理的合理性の破綻を指摘し、修正を促そうとする時、相手はこう思うことだろう

「貴方に私のやり方について文句を言われる筋合いはない」と。つまりそれは、私の人間性[固有成長発達段階]を理解せず、尊重しない者に私の思想の中身を指摘する権利はない。ということである。もっと噛み砕いてみるとこうなる「私のことを愛してくれていない人に何を言われても私はなんとも思わないし、受け入れない。」

人間性を否定する道徳観

また先程の話に重複するところがあるが、もし話の内容を理解できぬ発達段階に在るものにその話を一方的に行う時、その人は人間性を否定されているという思いを抱く。[現にこの行為は人間性を否定しているといって差し支えないであろう]

現に固有成長発達段階を理解していない人は、対人間に対して、人間的温かさ、人間的愛情が欠如しているのである。つまり、簡易的な表現をすると、この人は人間を一つの固有の独特の生命として見ておらず、理想や「こうあるべき」という頑なな道徳観を保持しており、それを無差別に全ての人に適応して物事を見る人なのである。

普遍的な道徳観というものと個人の成長段階は相伴わないものである。「こうすべきである」という道徳観はこの道徳観と実際の様相を比較するものである。

その時、実際の人間の姿がこの道徳観と違うものであった場合、その実際の人間を否定し、道徳観を満たしている状態へと変化させようとする動きが生ずる。その時、ありのままの人間はひどく尊厳を害されるのである。

このような接し方をする人と、先程の応援し見守ってくれる人との間の違いには天と地ほどの差がある。

人間には固有の成長と発達の仕方が備わっており、それは、どんぐりが樫の木に育つときのように元々備わっている成長の仕方を有しているのである。どんぐりが樫の木になる時にあの道徳観は必要であろうか。本当の道徳とは固有の発達を援助するものでなくてはならず、決して既成の観念を押し付けてゆくものであってはならないのである。

この点を満たした時、その人は人をより良い規律へと導くことが出来、共に繁栄してゆくことが可能になるのである。最初に挙げた6つの必修条件もその時自ずと揃ってゆくのである。

結論

論理的合理性は人間と人間のコミュニケーションによって必要不可欠なものであることは否定できない。何故ならば、私たちは言語という論理的合理性がないと成り立たない物を使ってコミュニケーションを行っているからである。

しかし、そこだけを追求した時、現に今を生きるありのままの人間とその人間性[固有成長発達段階]を見落とすことになってしまうのである。人間性をわすれてしまった言語美の追求は使い方を謝れば暴力[心理的な]になりかねないものなのである。

心の温かさがあって初めて、真のコミュニケーションが起きうるのである。それは人間一人一人のありのままの姿に寄り添い、理解し、援助することのできる愛の力と論理的合理性の強固なコミュニケーション能力の2つを統合するものである。

Posted by kazuki