言葉は事実を歪めてしまう

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私が花を見るとき、陽のあたる広大な土地に咲く無数の花を見るとき、そこにはただそれだけが存在します。それから、この花は彼の私の中の意味に変換されます。この花は、〇〇という花だ。花言葉は〇〇だから私は好きではない。この花は、あの人が好んでいた花だから私は好きだ等々。人間は観察されるものに対して、意味をつけ、独自の解釈をします。そのとき、観察されるもののそのありのままの姿と事実は歪められてしまうのです。

この単純な真実を観察し、自己を探求していくと、どれほど自分というものが迷信でできているかに気付かされます。私の解釈と思考は全く様々な伝統と記憶の繰り返しであり、そこに新しいものは何もないことに気づくのです。ありのままの景色や感覚やこの世界の意味というものを見れるのは、この思考が完全に終わったときだけではないでしょうか。思考は様々なことを決めつけ、生きる意味はないとか、これは価値のあることだとか、様々なことをいいます。しかしそれを信じ込み、それを絶対として行動してしまうとき、精神がどんどんと破壊され、葛藤により憔悴しきってしまうのです。

私の心の中にある、ざまざまな動きがあります。思考がそれを意味づけし、また更に歪められます。そして、どんどんと真実が見えなくなってしまうのです。思考によって歪められた真実、歪められた行動が引き起こされます。それは、現実を破壊する方向へ進まざるを得ないのです。なぜなら、現実に意味づけをしてしまった時点で、それとは異なるなにか別のものに変えようとする動きか、逆にその状態を保持しようとする動きが生まれるからです。

現実は流動的で常に無常であり、人間が扱えるような代物ではないのです。それを、思考によって決めつけ、その決めつけによって行動が生じるとき、その行動は現実との調和を欠いているのです。それは自ずと葛藤を生み出します。その葛藤はありのままの生命のエネルギーを否定し破壊していきます。それは自己破壊および全生命の破壊へと行き着くのです。

追記:2018年4月9日

ありのままのこの景色や動きに対して人は何らかの感情を抱きます。例えば目の前で踊っている人がいるとして、それに対してどのように感じるかは本当に十人十色です。ある人は昔の親友を思い出し、懐かしさに耽るかもしれないし。ある人は怒りの感情を抱くかもしれません。ある人は悲しみ、ある人は胸踊るかもしれません。この目の前のこの光景をありのままに見れる人はなかなかいないものです。必ず自分の過去の経験を通して、今この瞬間を解釈し、様々な感情を誘起するのです。人間の精神的な問題は全てこの範疇にとどまるものではないでしょうか。このことに関心を持つことは非常に重要なことだと感じます。なぜなら私達はあまりにも些細なことで闘争や悲惨をこの世にもたらしているからです。そしてあまりにも狭く限定された思考内で生きることに、この短い命を費やしてしまうからです。

日記

Posted by kazuki