イライラのはけ口として他人を理不尽に攻撃する人の心の仕組み

イライラのはけ口として他者を理不尽に攻撃する人の心理構造の一つの形態を暫定的にまとめ上げることができたのでその力学をここに書き記す。

自己嫌悪

全体像を簡単に説明すると、まず大前提としてあるのは、理不尽に他者を攻撃する人はありのままの自分を徹底的に嫌悪しているということである。ありのままの自分を嫌悪するとどんなことが起きるか。ここまでは読者も想像できるのだと思う。心理的なストレスが溜まるのである。

理不尽に攻撃する人の心理構造をまとめ上げたきっかけ

私が、この他者を理不尽に攻撃する人の心理構造を暫定的にだが、まとめ上げることができるようになったのはあるきっかけがあったからでした。それは、今朝、私が疲れて寝ているときに、家で飼育している猫が部屋に入ってきて、私の顔目がけて5分以上も頭突きをしてきたときのことである。私は、5分間耐えてみたが、一向に頭突きは止まず。息も苦しくなってきてとてつもなくイライラしてきたのである。そしてとてつもなく大きな怒りを感じ、追い払いたくなったのである。

読者はそんなの当然だろ。と思うかもしれないが、私にとっては大発見だったのである。なぜなら、それが今まで、全く理解することができなかった、理不尽な攻撃をする人の心理を暫定的にだが、理解する鍵となったのであるから。

生得的な防衛本能

人間や動物には生得的な防衛本能がある。例えば、首を閉められたらもがいて相手を攻撃するし、野球のボールが飛んできたら避けるだろう。これは本当に大事な機能であるが、心理的機能でそのようなものは必要だろうか。ここでなぜこのような問を出すかというと、理不尽に他者を攻撃するという行為に、この生得的な防衛本能が関係していると私はみているからである。

苦しみからの脱出

先程説明したように、大前提として、理不尽に他者を攻撃する人はありのままの自分を徹底的に嫌悪しているということを挙げた。ありのままの自分を嫌悪していると、精神的に苦しいだろう。さて、この苦しさは肉体的に首をしめられている感覚の苦しさと似てはいないだろうか。

苦しいとき、人はその苦しみから開放されるために反射的な防衛本能によってその苦しみから脱出する。この脱出、心理的な苦しみからの脱出が理不尽な攻撃として現れているのである。まだまだ、説明が足りていないのでこれだけでは、なんのこっちゃと思うかと思う。

残りの疑問

ここで疑問が残る。なぜ理不尽に他者を攻撃する人は、弱い人、優しい人、自分が盲信している価値観の中で劣ったものとして見下している人などにその怒りの矛先を向けるのか。そして、なぜ理不尽に他者を攻撃する人は自己非難をしているのか。この自己非難とそのはけ口がこのように結びつく因子は何なのか。等々である。これらを一つ一つ見ていきたい。

自己嫌悪の発生

まずは、なぜ理不尽に他者を攻撃する人は自己非難をしているのかである。それは、その人の育ってきた環境や現在の環境、及び、その人の信念と関わりがある。その人の信念は固定されている。この信念の中には絶対的な価値観が存在している。それは、善悪、優劣、等々を基盤としたものである。そして、否応なしに悪と決めつけたものを嫌悪し、劣と決めつけたものを嫌悪している。

わかりやすく、過激な環境を想像してみよう。伝統によってすべきことが決められた家系で生まれた子供がいるとする。その子供は、親族が期待しているあるべき姿と常に比較され、それと少しでも違った行動を取ったら叩かれ、叱咤される。そのうち、その子供はこの家系の伝統が唯一の正しき価値であると信じ込み、それに誇りを持つに至るであろう。そして、ありのままの自分のことを無意識的に嫌悪し、そのありのままの自分がふと表に出てくることを自ら律したり、それが生き生きとしていればしているほど、それに恐怖して生きることだろう。以上のような、背景や環境によって、この理不尽に他者を攻撃する人の基盤が構築されるのである。

ありのままの自分とあるべき自分との葛藤

しかし、どれだけ、人間の思考や観念によって自分を変えようとしても、実際に存在しているありのままの自分を沈黙させることなどできない。その時、この人の心のなかには大きな葛藤が生じているのである。その葛藤とは、ありのままの自分とあるべき自分との葛藤である。この葛藤は人によって自覚の程度が様々であり、気づいている人もいるし、気づいていない人もいるだろう。

自己軽蔑

葛藤は存在するが、この人の精神的な立場上、ありのままの自分を認めてそれを生きることにとてつもない恐怖を抱いていることだろう。なぜならば、この人の価値観では、ありのままの人間など軽蔑すべき存在で、叩かれて当然だし、世間から叱咤されて当然のものだと決め込んでいるからである。

地獄の苦しみ

しかし、現実はありのままの自分をことごとく嫌悪し、抑圧しているので、とてつもなく苦しいのだろう。まるで、いつまでも首をしめられつづけている感覚のような精神的、肉体的な苦しさが存在しているだろう。そして、その人は、本当の自分というものを全くと言っていいほど知らずに育ってきたので、精神的基盤(自分自身であることの健全な自信)はものすごく脆い。

生得的な防衛本能の誘発

では、ここから、どのようにして、理不尽な攻撃へと結びついていくのか。それを見ていく。この人はできるだけ自分のこの苦しみを感じないように様々な対策を試みて、苦しみをどうにか耐え忍んで生きているのだが、心のコップはいつも溢れんばかりであることは確かである。その為、少しの衝撃で、耐えられぬほどの苦しみとなり、それから抜け出そうというあの生得的な防衛本能(攻撃欲)が生じてくるのである。

何から自分を防衛するのか

この時、途轍もない破壊欲求と安心欲求がこの人を襲う。さて、ここで、この人は何に対して、防衛本能を生じさせているのだろうか。もし、先程の現実的な対象物の例なら、首を締めてくる相手であるし、自分に衝突しそうな車である。では、心理的な対象物は何であろうか。それは自分自身、及び、自分が盲信している伝統や価値観に対してなのである。

行き場のない怒り

しかし、この人は自分に対しても伝統や価値観に対しても、反逆をすることが困難であろう。なぜならば、それは自分の精神安定の手段に対して反逆するということを意味するからである。この時、この人は自分の精神を安定させるための手段と苦しみから開放されるための防衛本能との間で板挟みになるのである。

新たな怒りのはけ口とその対象

このときに、初めてこの人はそれ以外にはけ口を探し出すのである(これは本当の理にかなう解決策ではないのだが)。これは無差別的なものであるが、それでも、それには一定の選択基準がある。それは、はけ口の的にすることができるほど、自分に害を与えない弱い者。そして、同時に自分の精神安定に一役買ってくれる者(自分の優位性や正当性を感じさせてくれるもの)。である。

代表的なものは、自分より弱いものとして、子供、怒らない優しい人、老人、ネット書き込みなど。自分の優位性や正当性を感じさせてくれるものとして、自分が盲信している価値観の中で劣ったものとして見下している人などが挙げられると思う。

この理解をどのように活かすか

理不尽な攻撃は上記に説明してきたようにして発生してるのであるというのが暫定的な結論である。この説明が本当なのかは実生活で調べてみようと思う。そして、それが本当に理解できたのなら、その時、このような人とどのように関わってゆけばよいのかが自ずと明らかになってくるはずである。

エッセイ

Posted by kazuki